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オリンピック、W杯での活躍

 第2次大戦後のオリンピック・サッカーでは、1980年のモスクワ大会まで、東ヨーロッパ勢がタイトルを独占した。
 48年、大戦の影響がまだ強く残っていたときのロンドン大会では、大戦中は中立国として戦火を浴びなかったスウェーデンが優秀なプレーヤーをそろえて優勝したが、それ以後金メダルはハンガリーが3回、ソ連、ユーゴ、ポーランド、東ドイツ、チェコ、が各1回。銀・銅メダルも東欧がほぼ独占し、スウェーデン(52年・銅)、デンマーク(60年・銀)、日本(68年・銅)の3国だけが、東欧以外で、この間にメダルを握ることができた。

 西欧、南米のプロフェッショナルは、オリンピックに出場できないこと、東欧社会主義国は国家の威信がかかるだけに、代表チームへの国(政府)のバックアップが大きかったことなどがその理由だろう。国際サッカー連盟では、ワールドカップに出場した選手(つまり、その国の最高プレーヤー)は、オリンピックに参加できないという規約を設けたが、東欧各国はW杯の2年後には、まったくW杯に関係のない顔ぶれでチームをつくりあげていた。

 そんななかで、ユーゴは48年のロンドン大会での銀メダルをはじめ、52年のヘルシンキ、56年のメルボルンと3回連続して決勝に進出、4回目の60年、ローマ大会で待望の金メダルを獲得した。

 64年の東京オリンピックでも、ユーゴは優勝候補だったが、準々決勝で東ドイツのタフな守りに手を焼いて0−1で敗れている。このとき、FIFAのサポートで準々決勝の敗者4チームを関西に移して行なわれた大阪トーナメントで優勝し、実質、東京オリンピック5位を決めた。
 前述のジャイッチもこのときの代表で、彼らは東京での対ハンガリー戦で5−6の大激戦を演じ、東京のファンにサッカーのスリルを満喫させ、しかも大阪トーナメントを盛り上げて、その後の日本サッカーの人気上昇の一役を買ったのだった。

 1952〜54年のハンガリー代表チーム、「マジック・マジャール」と呼ばれたプスカシュらの活躍が物語るように、ある時期の東欧のチームは、ヨーロッパや南米のプロフェッショナルに対しても互角に戦った。ユーゴ代表も、58年のスウェーデン大会ではベスト8に進み、準々決勝では西ドイツに0−1で敗れたが、1次リーグではスコットランドやパラグアイと引き分け、フランス(3位になった)に勝っている。62年のチリW杯では、準々決勝で今度は西ドイツに勝ち、準決勝でチェコに敗れ、3位決定戦でチリに0−1で敗れてベスト4となっている。
 オリンピックでの優位だけでなく、ユーゴはワールドカップという世界のトッププロの集まる最高の大会でも堂々たる成績を収め、また、ヨーロッパのタイトルを争う欧州選手権でも上位の常連となってきた。


(サッカーダイジェスト 1989年12月号「蹴球その国・人・歩」)

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