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ピョンヤンの戦いの57年前 東京で2試合開催、日韓のW杯予選

 ベストメンバーの日本代表がピョンヤン(平壌)のあの雰囲気の中で、どのような戦いをするのかを見たかったけれど、ザッケローニ監督は違う選択をした。C組4戦を終わって3次予選の突破が決まったのだから、第5戦のこの北朝鮮のアウェーで控えのメンバーを起用し、代表チーム全体のレベルアップを図りたいと考えても不思議はないし、選手の個々の体調との勘案もあるだろう。いずれにしても思慮深いザックさんが選んだことだ。それにしても選手たちは大変だな――と思いながらテレビにかじりついていた。
 結果は0-1の敗戦、朝鮮半島のチームと日本チームの昔からの対戦のごとく、短いパスをつないで攻める当方に対して、ロングボールとドリブルで崩しにかかる北朝鮮という形になり、相手側にチャンスが多い前半を0-0で終わったあと、後半5分(50分)にFKからヘディングでつながれ、MFのパク・ナムチョルのヘディングで先制された。
 内田篤人やハーフナー・マイク、李忠成を繰り込んだ挽回策も、相手に退場者が出て、1人多くなった78分からの有利も結局はゴールを生めなかった。
 空中戦で競り負けての失点や、たびたびサイドを突破された守り、あるいは得点できなかったこちらのシュートチャンスなど、反省点もあり、いくつかの問題点も浮き彫りになったが、まずは、選手たちは良く戦ったと言えるだろう。
 大切なのは、相手の強い意欲に敗れた――ということとともに、こういう試合で勝つための技術をどうして築くかを考え、実行することだ。
 朝鮮半島での強い相手との試合は、この日のような流れになるもの。その中で、ゴールを奪える力を持つこと、それが世界につながる道でもあるのは、長い歴史の上でも明らかだ。

 さて、日本の90年を辿るこの連載は、1954年春、韓国と東京でワールドカップ予選を戦う、初の日韓戦――。
 1945年の大戦終結から、復興に向かう日本サッカーは、51年の第1回アジア競技大会(ニューデリー)で国際舞台へ復帰し、スウェーデンのクラブや香港から華人選抜チームなどが来日し、国際交流も始まった。52年のヘルシンキ五輪はまだ参加できなかったが、53年の国際スポーツ週間(現ユニバーシアード)には、学生選抜チームを送って、試合経験と、そのあとの長期のヨーロッパ行脚で、本場での体験を積んだ。
 53年秋11月にはスウェーデンから、今度はユールゴルデン・クラブが来日して3試合した。
 ▽22日 5-1全日本選抜(大阪)
 ▽25日 1-0全関東(後楽園)
 ▽29日 9-1全日本選抜(神宮)
 会場の大阪、後楽園はいずれも野球場で、当時のサッカー環境の貧しさを表している。このクラブとは学生選抜チームが渡欧したときも対戦した。ストックホルムをホームとする同国リーグに属する名門、前回来日のヘルシングボリ以上の人気チームで、来日メンバーにはアイスホッケーでも有名なCF(センターフォワード)スベン・ヨハンソンをはじめ、大型選手も多かった。
 野球場での特設会場は狭いために彼らの力は十分発揮されなかったが、明治神宮競技場(現国立競技場)での対全日本選抜(日本代表)は、前半は3-1だったが、後半に日本の動きが鈍って大差がついた。
 53年6月のオッフェンバッハ(西ドイツ)のときも同じだったが、この試合のラジオでの実況中継を務めた堀江忠男さん(故人、ベルリン五輪代表)の「日本側がくたびれなければ、終盤に点を取られずにすんだかもしれない。(年齢の高い)全日本のプレーヤーぐらいの技量を、もう数年若い人たちが身につければ、次第に向上していく」という言葉が、当時の日本サッカーの事情をよく表していた。
 ヨハンソンをはじめ、アイスホッケーのプレーヤーもいて、請われるままにアイスホッケーの日本代表と東京で試合をして勝ってしまったとう番外編も残っている。ヨハンソンのスケーティングとスティックワークのうまさはカナダのプロが執心という話を裏付けるものだった。
 そうした9年間を経て、54年3月にワールドカップ予選を迎えることになった、オリンピックよりレブルが上だというワールドカップに、年齢の高いいまの代表を送り込んでどうするのだろうか――、という意見もあったが、竹腰重丸さん(故人、第1回日本サッカー殿堂入り)をはじめとする当時のJFA首脳は、やはりより高いものを目指そうとした。
 隣国の韓国はすでに48年オリンピックに参加していて、朝鮮戦争という困難な時期を克服して、ワールドカップを目指した。
 スイスでの本大会(6月16日−7月4日)の出場16カ国に対して参加の申し込みが38カ国、アジアは第13グループとして、日本と韓国が対戦することになった。ホーム・アンド・アウェーであるべきところ、両国の国交がまだ正常ではないため、日本チームの韓国入国はできず、2試合とも東京で。3月7日、14日に行われることになった。日本へ向かう韓国チームには李承晩(イ・スンマン)大統領から強い言葉が贈られた。


(サッカーマガジン 2011年12月6日号)

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