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大統領の檄を背に韓国代表が大勝 57年前の日韓初戦悪条件下の決行に

 11月23日夜のNHKBS1で「伝説の名勝負 86年W杯アジア最終予選、日本対韓国」という番組が放送された。
 木村和司(現横浜F・マリノス監督)のFKで1点を返して惜敗(1-2)した85年10月26日の試合の録画と、当時の日本代表キャプテン加藤久さん、韓国代表MFだった朴昌義(パク・チャンソン)さんの2人の問答を加えての構成で、とても面白い2時間半(ニュースの中断をはさむ)だった。
 ときの監督が森孝慈さん(故人、メキシコ五輪銅メダリスト、第3回日本サッカー殿堂入り)であり、私も代表強化について裏方仕事にかかわったこともあって、忘れられない大一番でもあった。
 今働き盛りのメディア仲間たちにとっては、停滞気分にあった当時のサッカー界、84年の釜本邦茂引退試合の超満員以外は、空席の目立った国立競技場が久しぶりに満員の熱気に包まれたことからも、印象が強いのだろう。もう少し古い世代の人たちには、この18年前の10月7日に国立で行われたメキシコ・オリンピック予選の日韓戦――あの雨中の3-3の大激戦は、3日後の対南ベトナム戦勝利(1-0)とともに、オリンピック銅メダルに至る道を開いた「名勝負」ということになるかもしれない。
 26年前、あるいは44年前の日韓の名勝負は、いずれも国立競技場での熱気とともに甦るのだが、57年前の最初の日韓戦は、会場は国立の前身・明治神宮競技場であっても、私の記憶は「熱気」ではなく「寒気」ということになる。
 1954年3月4日、午後からの雨が気温の低下とともに雪となった。寒気は試合当日の3月7日まで続いた。積雪といっても、東北や北陸のドカ雪ではないが、東京では15センチも積もれば大雪で、除雪設備に乏しいからまことにやっかいなもの。
 神宮競技場は積もった雪を周囲に積み上げ、とりあえずピッチ上の雪はなくなったが、溶けた水には薄氷が張っているという状態。
 試合開始の頃には気温は5度まで上がったが、外側を盛った雪に囲まれたピッチの上の寒さは実際どうだっただろうか。
 日本代表は、GK村岡博人、DF山路修、杉本茂夫、岡田吉夫、MF宮田孝治、井上健、賀川太郎、長沼健、FW木村現、二宮洋一、加納孝という顔ぶれ(当時のメンバー表の記入とは別に、現代風に言えば3-4-3の形で表記した)。

 試合の経過は、日本が5分に長沼のシュートで先制、泥の中で止まったボールをトウキックで蹴ったこの、のちのJFA(日本サッカー協会)会長の得点勘が当たっての0-1だったが、このあとは、韓国が圧倒して、終わってみれば1-5という大差だった。
 雪どけの水の泥んこの状態のピッチで、韓国のキック・アンド・ラッシュが生きたということだが、それよりも寒さのために日本側の選手一人ひとりが凍りついてしまったということ。それに引き換え、零下10度以下のソウルからやってきた韓国の選手にとっては、神宮競技場は寒さのうちに入らなかったらしい。
 単に空気が冷たいだけでなく、濡れたピッチが一層体温を奪ってしまったこともある。DFの山路は前半始めに、スライディングタックルをしてユニフォームがびしょ濡れとなり、それが凍りつく感じになって、全身がマヒ状態になった。そうした寒気対策も全くできていないことに今のトレーナーたちは驚くだろうが、東京や関西で、こういう状態の試合を経験することもなく、そうした寒地でのアウェー試合もなかったのだから…。
 この日の試合の前に、韓国側から「こういう悪コンディションのもとでは試合は延期すべきだ」との申し入れがあり、香港から来日した英国人レフェリー、J・ハラン氏も「健康に良くないから、試合は取りやめにしてもいい」との意見だった。
 それに対して、日本の竹腰重丸監督は「予定通り行うべきだ」と主張し、試合決行となったのだった。
 日本サッカーの第一人者であった竹腰さんは、のちに自ら「あれは止めるべき、私の失敗だった」と言っていたという話を平木隆三さん(JFAで長く技術委員長、第1回殿堂入り)から聞いたが…。
 誰が考えても日本側に不利なピッチで、相手もレフェリーも、中止を考えているのに、決行を主張した根拠は良く分からないが、当時の日本側にはかつての仲間であった韓国代表の手の内も知っているというおごりがあったのかもしれない。昔の友人たち以外に崔貞敏(チェ・ジョンミン)という有能なストライカーがいることも知らず、ましてその友人たちも李承晩(イ・スンマン)大統領から、勝たなければ玄海灘へ身を投げろ(死に物狂いで戦え)と強い叱咤激励を受けて、強い決意で日本に乗り込んできたという情報もなかったようだ。
 それでも、選手たちは完敗のあとも、第2戦に勝って1勝1敗とすれば再試合ができる(この頃は得失点差合計はなし)ことに望みを持っていた。


(サッカーマガジン 2011年12月13日号)

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