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第2回アジア大会、日韓戦の反省を背負い 挽回を目指した日本代表だったが…

 1954年3月23日、JFA(日本サッカー協会)は、この年5月にマニラで開催される第2回アジア大会の日本代表を発表した。
 ▽監督 竹腰重丸 ▽コーチ兼選手 川本泰三 ▽主務 横山陽三 ▽選手 GK渡部英麿、村岡博人 FB、HB 平木隆三、土井田宏之、岡田吉夫、宮田孝治、松永信夫、杉本茂雄、大埜正雄、高林隆、 FW鴇田正憲、木村現、賀川太郎、二宮洋一(主将)、岩谷俊夫、長沼健、加納孝、徳弘隆
 ワールドカップ予選(日韓戦)からアジア大会まで1カ月半という短期間であるため、新しいチームを編成することができないとして、この年の1月に代表候補30人を選考。その中から二つの公式国際試合の代表を編成したのだから、選手が重なるのは当然だろうが、今回の19人(コーチ兼任を含む)のうち、日韓戦出場者は17人とほとんど変わらない顔ぶれとなった。大会を前に対韓国戦の1分け1敗(1-5、2-2)、特に勝てると見込んだ第2戦が引き分けとなったことについて、竹腰監督はどう考えていたのか――。
 「第1戦は、積雪を排した泥濘の競技場であったため、凍えて動けなかったのが大敗の原因であるが、泥濘の中では筋骨に優る彼らに利があることは否めなかった。第2戦は優勢な戦況ながら同点引き分けとなった。優勢であり得たのは戦術的な動きの巧みさと、それに伴うパスがよく通ったことであり、それにもかかわらず引き分けに終わったのは、フォワードにゴール前でのあと1歩の鋭さがなかったため、優勢でありながら、その割合に得点が少なかったこと――。韓国選手の個人的なボール扱いの巧みさと、ゴール前の突っ込みにわずかの隙を突かれて得点を許したからであった」とあった(協会機関誌昭和30年5月号、第2回アジア大会報告より)。
 竹腰監督、愛称ノコさんの書きものは、格調があり、問題点をしっかりとらえているが、今の人たちから見れば抽象的で理解しがたい点もあるかもしれない。シンプルに、私流に言えば、川本、賀川太郎、岩谷の3人によるキープ力と、右の鴇田、左の加納の両サイドの突破力による攻め込み、これに若い高林と運動量の多い大埜という2人のHBの押し上げ、さらには左FBの岡田の攻め上がりを加えて、チャンスは多かったが、岩谷の2ゴールに止まった。相手の動きが鈍った終盤には川本が二度シュートチャンスを持ったが、防がれてしまった。キープとチャンスが多かった日本に対して、韓国は粘ってよく耐え、崔貞敏というFWの個人力で2ゴールを奪って同点となった、ということになる。二宮という大きくはないが、ヘディングの突っ込みの強いFWを第1戦で使ってしまったのが惜しい気もした。

 こうした日韓戦の反省の上に立って、マニラへ送る代表チームは「A 2点程度の失点はあっても、それ以上得点できるよう、FWのみならずバックも攻撃的に編成すること。B 基本的にWMフォーメーションによることとし、FWの動きは型崩しの動きを取り得るように相互理解をつけること。C 経験の豊かさを基礎に『間合い』の試合にまで高めること」を基本方針としたという。
 4月に10日間の合宿をした。
 戦前にノコさんが手がけた日本代表選手は学生選手が主力だった。30年の極東大会や36年のベルリン・オリンピックの前には、1カ月以上の合宿練習をして組織力アップと体力づくりも行ったが、戦後10年目の代表は会社勤めが多くて短期合宿にとどまった。ただし、すでに2〜4年代表でプレーしている者が多く、相互理解は十分と見ていた。
 この合宿中に、現地でのナイター試合を想定して後楽園球場(つまり野球場)での練習を企画したが、雨のため実行できなくなったという不満もあったが…。
 マニラでの第2回アジア大会サッカー競技は12チームが参加、3チームずつ4組に分けての1次リーグを行ない、各組1位が準決勝、決勝のノックアウトシステムで優勝を争う。試合時間は80分となっていた。
 組分けは、▼A=中華民国、ベトナム、フィリピン ▼B=韓国、香港、アフガニスタン ▼C=日本、インドネシア、インド ▼D=シンガポール、パキスタン、ビルマ
 日本は、まずインドネシアと5月1日に試合。3チームによるリーグだから、初戦に負けると、次のインド戦は5月3日と(中1日)不利な戦いとなり、第1戦の勝者は対インド戦が5月5日に組まれていた。
 始めは競技場が2か所の予定だったのが、改修した野球場に不備があって結局1会場だけとなったのも不公平日程のもととなった。
 開催国フィリピンは、太平洋戦争中に日本が占領していたところ。戦争や占領によって被害を受けた市民の対日感情は悪く、51年の第1回アジア大会でもフィリピン体協は日本の参加に反対したこともあった。今度はそうしたこともなく、大会は始まり、サッカーは5月1日、午後9時5分、メーンスタジアムでの第1試合、中華民国対ベトナムに続いて行われた。十分な準備で乗り込んだ第1戦で予想外の結果となる。


(サッカーマガジン 2011年12月27日号)

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