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インドネシアに初戦で完敗 新興国の向上の早さに後れをとる

 Jリーグ・チャンピオンの柏レイソルとACL(AFCチャンピオンズリーグ)の勝者、アルサッドが準決勝に進出して、注目度もひときわ高まった今年の「TOYOTA プレゼンツ FIFAクラブ・ワールドカップ」だが、決勝はバルセロナとサントスという、欧州対南米の対決となった。
 メッシ、イニエスタ、シャビを軸にいまや世界のスーパーチームとなったバルサと、若きネイマールのいる南米の名門(ペレを生んだ)サントスとの試合は――どういう展開になるのか――少なくとも、サッカーと言うスポーツの「質の高さ」を見せてくれることだろうと期待している。日本サッカーにとっては、実りの多かった2011年を締めくくるものとして3位決定戦での柏の戦いとともに、頂上対決が日本の若い指導者たちに大きな刺激を与えてくれることを願っている。
 さて、連載は、1954年第2回アジア競技大会に参加した日本代表の1次リーグに入るところから――。
 5月1日、マニラでのB組第1戦で、日本はインドネシアと対戦。試合は前半(40分ハーフ)に4ゴールを失って1-4となった。
 一番の原因は2人のインサイドフォワード、いまの流儀で言えば攻撃的MFの賀川太郎が体調不良、岩谷俊夫が前半20分に相手のファウルで左足首を痛めてしまったことだ。この大会の特別規定で「フィールドプレーヤーは2人まで、GKは随時、交代できる(当時は交代が認められていなかった)」があったのだが、前半終了まで2人を交代させなかったことも響いたはずだ。
 1922年生まれの兄・太郎は、30歳を超えていたが、キープ力、パスの技術とともに体力的にも強く、代表のエンジンとなっていた。不調の原因は暑気あたりとされていたが、3月の日韓戦の「凍死寸前」とまで選手たちが訴えた大敗の第1戦のあと、引き分けの第2戦にも出場していたくらいで、誰もが安定した体力を信用していた。代表と田辺製薬(この年まで全日本実業団選手権4連覇中)など数多くを4年ばかり続けてきた試合過多による疲労の蓄積が、マニラの暑さによって一気に噴き出したのだろうと私は思っている。
 いま考えれば、その頃の代表チームでの選手の体調管理が決して十分ではなかったのが不思議だろうが、日頃元気なだけに、すぐに交代とはいかなかったのだろう。
 岩谷は第2列からの飛び出しとシュートの巧みさで、点の取れる選手だった。それだけに、目立つ存在だから、相手のバックのタックルも激しく、川本泰三から見れば、明らかなファウルだったと言う。

 ともかくも、中盤の2人がほとんど役に立たなくなった。ボールキープができない上に、相手のスピードが素晴らしくて、日本のDFの対応が遅れて4点を失ってしまった。悪いことは重なる。日本のゴールキーパーの2人は渡部英麿が肩を痛め、起用された村岡博人もまた決して調子は良くなかった。彼もまた日韓戦「凍結」が尾を引いていたかもしれない。
 後半に、前述の2人に代えて高林隆、二宮洋一の2人を投入した。その出鼻にPKで1失点して1-5となったが、日本は激しく追い上げて3-5まで迫った。竹腰重丸監督のリポートには「4点目を取ったが承服しかねるオフサイドの判定で取り消されたのは残念、それでも相手の力の方が上だった」とある。
 チームを編成したときは「2点くらいの失点をはね返せる攻撃力を持つ」のを狙いとしたのだが…。
 インドネシアは、スカルノ大統領のスポーツ奨励によって、最も盛んなサッカー強化にも国のバックアップが入り、ユーゴスラビアから有名なコーチ、ポガチニクをこの年の2月から5年の契約が招いていた。こうしたアジアの新しい独立国のサッカー強化の成果が見え始めたのも第2回アジア大会の新しい傾向だった。
 第2戦の相手はインド。第1回大会の優勝国だった。
 5月3日午後9時10分からの試合は復調の渡部、FBとHBは第1戦と同じ平木隆三、岡田吉夫、宮田孝治、松永信夫、大埜正雄で、FW木村現、長沼健、川本、二宮、加納孝のラインナップとした。この試合も前半に0-2、後半始めに1点を失い、FWの右サイドに鴇田正憲、高林を送り込んであら圧倒的な追撃戦となったが、2ゴールを返しただけだった。
 「日本は、相手の動きが鈍る前半には押し込んでも点を取れるが、インドネシアもインドも、元気なうちに自分たちのスピードとシュート力を発揮してビューティフルゴール決めていた」とは、兄・太郎の言葉。
 4年後に日本での第3回アジア大会を控え、この大会を足場に東京オリンピックの開催を検討していたJOC(日本オリンピック委員会)や体協では、マニラに多くの関係者を送り込んでいた。その一人、田畑政治選手団長は、解団式にあたってこう述べた。
 「アジア大会はボールゲーム(球技)の大会である。この技術の関係者の奮起を期待したい」
 JFAは戦後10年目で代表の変革を迫られていた。


(サッカーマガジン 2012年1月3日号)

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