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第1回日本フートボール大会に出場 慶応ソッカー部の創設者でハンター邸の主 範多竜平(上)

創草サッカー珍談の主人公

 東邦(愛知)も帝京大可児(岐阜)も宮崎の鵬翔(優勝チーム)にPK戦で負け、月刊グランの読者の皆さんには、残念な今年の全国高校選手権大会でしたが、その鵬翔と京都橘の決勝には今年も多くの観衆が国立競技場につめかけ、サッカー人気の高さを示していました。その模様をテレビ観戦しながら、私は、遠い昔の大先輩を思い出していました。
 今回、紹介する範多竜平さん(1899?〜1968年)は、1918(大正7)年の第1回日本フートボール大会(全国高校選手権大会の前身)に神戸一中のキャプテンとして出場し、慶応大に進学した後、慶応ソッカー部の創設にかかわった一人。アイルランド人の成功者、エドワード・ハズレット・ハンターを祖父として、後に国の重要文化財となった「ハンター邸」の主でもあった。神戸一中43回卒業の私、賀川浩から見れば、19回生のこの人は、24歳年長の大先輩。
 草創のころの日本フートボール大会の「奇妙なルール」に泣かされ、強敵、御影師範に闘志を燃やした少年期や日本のラグビーフットボールの始祖である慶応で「ラグビーでないフットボール」のクラブの立ち上げに苦労した話などなど、今のサッカーファンには信じ難い「今昔物語」の主人公でもあった。
 ビルマ人、チョウ・ディンと神戸一中とを結びつけたのも範多さんで、いわば「日本サッカーの戦術の大躍進」の陰の力でもあった。
 大正と昭和初期にかけての日本サッカー勃興期を範多さんの生涯とともに眺めてゆきたい。が、まずその前に、範多(ハンター)の家系とハンター邸について触れておこう。


ハンターが範多に

 神戸市の北野、異人館のある観光スポットには、かつての範多邸の名を残すハンター坂がある。神戸開港のころにアイルランド、ロンドンデリーから渡ってきたエドワード・ハズレット・ハンター(1843〜1917年)は、事業に成功し、大阪に大阪鉄工所(現・日立造船)を設立して財をなし、その広壮な邸宅はハンター邸と呼ばれていた。この祖父・ハンターとハンター邸の物語は、神戸の歴史を語るときに避けることのできぬものとして、多くの出版物に記されている。大阪の居留地に出入りしていた薬種問屋、平野家の娘・愛子と結婚。嫡男のリチャードには母親の姓をつけて平野龍太郎として日本の戸籍をとらせ、二男のハンス(範三郎)、三男のエドワード(英徳)も同様だった。平野龍太郎はドイツ、イギリスに留学し、帰国した後、そのころ係累の途絶えていた元与力の範多才助という戸籍を知り、1893(明治26)年に範多姓を継承して、範多龍太郎と改名した。彼の弟妹も平野姓を範多姓に改めて、父のハンター(Hunter)を漢字の範多(ハンタ)に残し、数多くの事業に成功したハンター商会も範多商会となった。
 範多竜平はこの範多龍太郎の長男−−出生の年月日が不詳だが、1899年あるいは1900年生まれで、神戸一中に入学したのは1913(大正2)年。サッカー部(蹴球部)への入部は2年生のときだという。
 神戸一中、正式名は兵庫県立第一神戸中学校−−開校は1896年5月、兵庫県神戸尋常中学校としてスタートした。神戸の町では兵庫開港(1867年12月7日)の3年後、1870年に居留地に外国人たちのスポーツクラブ、KR&AC(神戸レガッタアンドアスレチッククラブ)が創設されていて、サッカーの事始めも、その翌年、1871年との説もある。日本サッカーの歴史にある1873年の東京・築地の海軍兵学寮でのプレーよりも2年早いが、ここでは、今後さらに詳しい資料の発掘を見てからということに止めておく。
 1877年には今のフラワーロードの西側にKR&ACのレクリエーショングラウンド(東遊園地)が完成して、ここでのスポーツ風景が市民の目に映り、関心も高まった。
 神戸一中にも開校の年に、すでにボールを蹴ったという寄宿舎の寮生日誌が残っている。サッカー部の創立は神戸一中の場合は1913年になっているが、校内では昼休みなどの間にボールを蹴るものが多かった。祖父の血を受けて長身の竜平は、入部してしばらくするとゴールキーパーを務める。彼らが4年生のときに東京・芝浦での第3回極東大会は日本サッカーが参加し、2戦2敗、大差で敗れたが、これが全国のサッカー熱をあおり、5年生のときに日本フートボール大会が開催されることになった。


(月刊グラン2013年3月号 No.228)

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