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ゴールキックを笛の前に蹴ったとペナルティー 第1回日本フートボール大会の棄権事件 範多竜平(中)

3年生で蹴球部員に

 アイルランド人、エドワード・ハズレット・ハンターを祖父に持つ範多竜平さんが神戸一中(現・神戸高校)に入学したのは1913(大正2)年。1896(明治29)年に開校したこの学校に蹴球部が生まれ、活動を始めたのは、範多さんが入学した年の11月からだったが、その17年前の開校当時から寄宿舎の寮生の間でボールを蹴っていたという記録もあり、学校では昼休みにフットボールを蹴って遊んでいたという。

 1年生の範多さんも「5年生の西村さんや4年生の三宅さんといった背の高い人がお昼の休みにフットボールを蹴っているのを見ていると、空まで上がるように思われて、あんなに蹴れれば面白いだろうと考えていた」(『神戸一中蹴球史』=昭和12年刊)と記している。

 蹴球部員となるのは、範多さんが3年生のとき。「ある日の放課後、5年生の若林(後の野田)信三君が私をゴール前に引っ張っていって、皆のシュートするのを止めさせた。これが蹴球部に入った初めで、若林君のシュートなどずいぶん恐ろしいものだった」と回顧している。

 範多さんは神戸一中19回生(私は43回生だから24年離れている)で、3年上に白洲尚蔵(=16回生=、有名な白洲次郎=21回生=の兄)がいてGKだったから、この人が卒業した後のGKとして、背の高い範多さんが目をつけられたのだろう。

 初代部長の岩田久吉先生の話によると、それまで主として5年生と4年生でチームをつくっていたのを、1915(大正4)年度から全校的に普及して、3年生もチームのメンバーに入ったとあり、範多竜平、有村良秋、茂恒夫といった3年生の名がある。

 昼休みにボールを蹴っていて、全校への浸透が進んでいたこと、英国人教師、C・B・K・アーガルの熱心な実地指導ですぐに上達し、前述の白洲尚蔵たちは神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KR&AC)のレクリエーショングラウンド(東遊園地)でKR&ACと数回試合をするまでになる(もちろん全敗、得点なし)。また、先輩格の御影師範とも試合をするようになった。


95年前のサッカー大会

 範多さんが4年生のときには各校との試合数も増え、明星商(0―0)、広島中(1―0)、関西学院高等部(5―0)、神戸二中(2―1)と負け知らず、御影師範主催の関西連合大会では、まず甲陽クラブ(御影師範のOBクラブ)を3―1で破り、明星商と0―0(CK数で勝ち)、決勝での対御影師範では相手側の乱暴を理由に試合を途中で放棄して(0―1)敗れている。
 こうした成績から、1918(大正7)年1月12、13日に豊中グラウンドで開催された第1回日本フートボール大会でも、優勝候補の呼び声高い御影師範に次いで、神戸一中が注目された。

 神戸一中は1回戦で堺中学を8―0の大差で破った。次の準決勝の相手が御影師範だった。この試合は前半0―0、後半に1―0の合計1―0で御影師範が勝って決勝に進み、明星商を1―0で倒して初優勝した。この対御影師範の敗戦は、実はGKであった範多さんの反則が原因であったという。

 「0―0のまま、一進一退を続けているとき、ゴールキックでFBの有村君がボールを置いてくれた。それを大急ぎで蹴ってハーフラインまで飛ばすと、レフェリーの笛が鳴った。笛を吹かないうちに蹴ったのがいけないと言われ、やり直しを命じられた。『もう一度反則するとペナルティーをとる』とも言われたが、興奮していたのか、次に同じようなゴールキックのときにも急いで笛の鳴らないうちに蹴ってしまった。レフェリーは笛を吹き、ペナルティーマークを指した。仲間のだれかが『やり直しであって、PKはおかしい』と抗議した。私は内心『故意にやった』と思い、逆上して『退場、棄権だ』と怒鳴ると、私ひとりスタンド前まで、全速力でかけ出し退場してしまった」と範多さんは言っている。

 「笛を吹いてからプレー再開」というのがルールであったらしいが、それを二度犯すのがPKにあたるのかどうか――。
 岩田部長は範多キャプテンに「私に相談すべきであった」「正当だと思えば、どこまでも主張せねばならない。棄権しては何もならない」と言ったとか。95年前のサッカー大会の姿ということになるのだろうか――。


(月刊グラン2013年4月号 No.229)

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