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チョウ・ディンの指導で神戸一中を開眼 51年第1回アジア大会に後輩10人を送り込む 時代の先頭を歩いたサッカー人 範多竜平(下)

慶応大ソッカー部を創設

 今年、創部100周年を迎える神戸一中(現・神戸高校)サッカー部は、戦前の旧制中学校(現在の高校とほぼ同じ)のカテゴリーでは、全国優勝回数の多い強豪校というだけでなく、後の日本流組織サッカーの源流となったことでも知られている。その草分けの一人が、範多竜平さん(故人)。神戸一中19回卒業で、私、賀川浩(43回卒業)から見れば、24年上の大先輩に当たる。すでに3、4月号の2回で祖父エドワード・ハズレット・ハンターや今も神戸の名所の一つとして、市民や観光客にも親しまれている「ハンター邸」や、範多さんが出場した第1回日本フートボール大会(現・全国高校選手権大会)での試合の模様を紹介した。

 この号でも、慶応義塾大のソッカー部創設や大戦後の第1回アジア競技大会など、草分けの名にふさわしく、常にサッカーの新局面の先頭を歩き続けた範多さんの足取りを見る。

 慶応大ソッカー部の創立は1921(大正10)年。創始者として深山静夫(広島一中)、範多竜平(神戸一中)、下出重義(明倫中)、千野正人(神戸一中)、斎藤久敏(東京高等師範付属中)の名が記されている。名称が当時では珍しいソッカー部となったのについては、先輩格のラグビー・フットボール部(蹴球部)がフットボールという名をつけるのを許さなかったからだというエピソードがある。範多さんはチームの代表として、東大の野津謙(第4代JFA会長)、早稲田の鈴木重義(第4回日本サッカー殿堂入り)たちとともに、東京カレッジリーグ(現・関東大学リーグ)の創設にもかかわっている。ソッカー部は範多さんの卒業から2年後、浜田諭吉がキャプテンとなってからステップアップし、浜田主将がドイツのコーチ、オットー・ネルツの著書『フスバル』(フットボール)を完訳して、チームのテキストとした。その流れを受け継いだ松丸貞一(故人)が監督となって、1937(昭和12)年からの黄金期をつくった。

 浜田主将のドイツへの傾倒は、先進の東大とライバル早大がともにビルマ人のチョウ・ディンの指導を受けての進化に対する挑戦でもあった。しかし、範多さんはこの有能なコーチ、チョウ・ディンが神戸一中の後輩たちを直接指導するように計り、神戸一中の技術、戦術に革命をもたらした。それは1923(大正12)年、神戸の御影師範学校の指導に来ていたチョウ・ディンの練習休みを利用して、「宝塚歌劇を見に行こう」と誘い、宝塚のグラウンドで待ち受けた後輩たちに指導を受けさせたのだった。

 当時の学校制度で2歳年長の師範学校を相手に体格、体力にハンディを「いつも」背負っていた神戸一中の選手たちが技術を高め、ショートパス戦術を身につけて、御影師範や青山師範などを破るようになったのは、この後のことである。


神戸一中の組織サッカー

 大戦前の神戸一中や慶応の輝いた時期は太平洋戦争によって中断した。その大戦争が終わった後、焦土の中からの日本のスポーツの国際舞台への復活のスタートは、1951(昭和26)年、インド・ニューデリーでの第1回アジア競技大会だった。日本サッカーは二宮洋一監督(兼選手)たち16人の選手を送った。日本選手団本部役員とサッカーチームの団長兼ねて範多竜平さんも参加したが、16人のうち二宮をはじめ、10人が神戸一中の出身者だった。ポジション別に挙げるとGK・津田幸男(慶応大出)、加藤信幸(東大出)、FB・岡田吉夫(早大出)、杉本茂雄(関学大出)、HB・宮田孝治(早大出)、則武謙(神戸経大出)、FW・鴇田正憲(関学大出)、賀川太郎(神戸経大出)、二宮洋一(慶応大出)、岩谷俊夫(早大出)で、神戸一中36回卒の二宮、津田を年長に、45回卒の鴇田まで、34歳から25歳までの年齢層だった。自らがOB会(神中会)の中心となって、この学校チーム独特のショートパスによる組織サッカーの伝統をつくった範多さんの夢の実現だった。

 ニューデリーの大会では、国際大会での未経験やインド特有の気候によるハンディなどもあって3位に終わったが、日本サッカーは戦争のブランクの後、アジア各国の戦後の勢いと変化を知ることになる。

 範多さんは、この大会からしばらくしてJFAの仕事から離れるが、神戸のハンター邸とともに慶応の黄金期、戦前の神戸一中の記録と記憶は、草分けの名とともに長く残る。


(月刊グラン2013年5月号 No.230)

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