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メキシコ・オリンピックでPKを防ぎ 銅メダルを守ったGK 横山 謙三(上)

光の選手キャリア

 3、4、5月号で第1回日本フートボール大会(現・全国高校選手権大会)に出場した範多竜平さん(故人)を紹介しました。100年近く前の同じ時期、1918年に名古屋で新愛知新聞(現・中日新聞)主催の第1回東海蹴球大会が開催され、第八高等学校(八高)、明倫中学、愛知第一師範、愛知三中の4校がリーグ戦を行い、八高が優勝したことはよく語られています。こうした古い時期の愛知の先人たちについても、この連載でお伝えしたいと考えていますが、今回は時代を大きく下った半世紀前の日本代表ゴールキーパー、横山謙三が主人公です。
 東京、メキシコの二度のオリンピックに出場、68年のメキシコ大会では銅メダルを獲得、男子の日本サッカーで今なお、最高の栄誉に輝く一人。3位決定戦では、後半に相手のPKを防いだ大功労者でもあります。
 その栄光の選手キャリアを眺めると――。
 63〜75年まで日本代表GKとして171試合に出場(Aマッチ49試合)、64年、東京オリンピック・ベスト8、66年、第5回アジア大会3位、三菱重工業(現・浦和レッズ)では日本サッカーリーグ1部で66〜77年に136試合に出場して優勝2回、ベストイレブン7回受賞、天皇杯優勝2回。
 選手引退後も76〜83年の間、三菱重工業監督(77年までは選手兼任)となってリーグ優勝2回、リーグカップ戦優勝2回、天皇杯優勝2回、78年には三冠を達成した。
 また、88年から日本代表監督を務め、91〜92年の総監督を含めて代表強化に尽くした。93年のプロリーグ設立後は94年には浦和レッズ監督、95年に同ゼネラルマネジャー、取締役としてリーグ随一のビッグクラブへの基礎を固めた。2006年から埼玉県サッカー協会の専務理事となり、サッカー王国・埼玉の進化に力を注ぐ。06年には第3回日本サッカー殿堂入りの表彰も受けている。


守った2点リード

 輝かしい選手キャリア、監督、コーチとしての業績の中で、最も華やかなのは、前述の1968年のメキシコ・オリンピックでの銅メダル獲得だろう。サッカーの世界で無名だった当時の日本代表が、ナイジェリア、ブラジル、スペイン、フランス、ハンガリー、メキシコといった強国の代表と戦い、1次リーグを1勝2分けで突破、準々決勝でフランスを倒し、準決勝でハンガリーに敗れたが、3位決定戦でメキシコを2―0で破って世界中を驚かせた。デットマル・クラーマーの指導と長沼健、岡野俊一郎という監督、コーチのペアと選手たちが一丸となって、チームの強化を図ったこと、イレブンが自らのプレーを国際レベルに引き上げようと努力したことが報われたといえる。
その1次リーグから3位決定戦までの6試合の一つ一つが難事業だった。特に3位決定戦の相手は開催国が十分に準備してつくり上げてきた代表であり、個人技術も高く、メキシコのボールポゼッションと攻勢が続いた。それを防いで、日本がカウンターを仕かけるかたちとなった。18分に釜本邦茂の左足シュートで1―0、39分に釜本の右足シュートで2―0としたが、2―0となっても、相手に押し込まれた。守勢のうちに前半を2―0で切り抜けた後、後半2分に、いきなりPKのピンチがきた。
 「ここで1点奪われれば、苦しくなる」と日本側のほとんどが思った。長沼監督も「2―1になると危ないと感じた」とリポートに記している。焦りの見えていたメキシコ側は元気づき、調子が上がるだろう、こちらには2点差を追い上げられたという気になるだろう――という大きな節目だった。
 キッカーはペレーダ。彼は1次リーグ第3戦の対ギニアでもPKを右足で蹴って決めていた。スタンドのメキシコ・サポーターの期待は高まったが、GK横山の右へのシュート(横山の左側)は彼のリーチ内、セービングに入った横山の腹のところで止まった。
 この場面を岡野コーチは「後半開始早々のPKは試合の天王山ともいうべきものがあったが、横山が冷静にペレーダの狙いを読み、フェイントをかけて誘った方向に来たボールを好捕したのは見事だった」、長沼監督は「横山のカンの冴えと硬くなった相手の失敗で防いだ」と記した。
 横山自身は「相手が自分の左側へ蹴るのを読んで、誘いもかけた」といっている。


(月刊グラン2013年6月号 No.231)

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