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コースを読み、タオルで誘って 45年前の銅メダルPK 横山 謙三(下)

大ピンチに冷静な読み

 メキシコ・オリンピック(1968年)銅メダルのヒーロー、GK横山謙三を前号に続いてお届けします。
 6月号は後半部分で、68年10月24日、アステカスタジアムでのメキシコとの3位決定戦に触れ、後半2分にPKのピンチを迎えたところで終わっている。試合の流れとしては個人技術の高いメキシコがボールを保持することが多く、日本はその攻めを防いで、少ないチャンスを杉山隆一、釜本邦茂が生かすというかたちで2―0とリードし、後半に入って2分、相手にPKが与えられた。
 いささか沈滞気味のスタンドは開催国の大チャンスに、一気に盛り上がった。ここで相手に1ゴールが入れば、流れは変わるだろう――と誰もが思ったが……。横山は相手のシュートを見事に止めて、ピンチを防いでしまう。この45年前の場面を本人に回想してもらうと……。
 「試合前からPKのことは想定していた。1次リーグでメキシコはPKをもらって、ペレーダがしっかり決めている。右足インフロントでゴール右上へ。つまり、GKの私の左側上へ決めている。彼が蹴るだろう、蹴れば、同じところを狙うだろう。私は自分の左側のサイドネットにタオルをかけておいた。得意の方向へ蹴るとき、彼から見れば目印になるかもしれないと、誘いをかけた」
 「予測どおり、彼は右(GK横山の左手側)へ蹴った。しかし、サイドネットへではなく、蹴りそこねて、私の近くにグラウンダーがきた」
 ヤマをかけても、先に飛ばなければ止められないキックをするはずの相手だったが、ボールは隅へと行かずに、GKのリーチの範囲だった。方向を読み、ヤマをかけていた横山はむしろ驚いていたが。
 「予想外のボールにハッとしたが、気がついたら、横に飛んだ自分の腹のところでボールが止まっていた」
 「東京オリンピックの準々決勝でチェコに負けた(0―4)とき、PKで1点を奪われた。自分は左へ飛んだのに、ボールは右に来た。先に動いての失敗は、このとき、身にしみた」
 そうだから、予測はしてもギリギリまで動かず、それが相手のミスキックへの対応となったのかもしれない。
 PKを防いだ日本は元気づき、1―2に追い上げるチャンスに失敗したメキシコ側は焦りを増す。日本代表は、この後も相手の再三の攻撃をはね返し、無失点で抑えた。


勉強し、実行する姿勢

 横山謙三は1943年1月21日生まれだから、今年70歳。サッカーどころ埼玉県育ちで、少年期は体の弱い方でサッカーは中学3年から始めたという。川口高校3年生のときにGKをすることになり、関東大会に出場、ここで岡野俊一郎コーチ(第9代JFA会長、当時はユース代表コーチ)の目にとまり、61年の第3回アジアユース大会の日本代表に選ばれ、バンコクでの大会4試合に出場、以来、GKとして日本代表に仲間入りする。
 身長177センチ、今の190センチ級のGKに比べればもちろんのこと、当時でもGKとしては小さい方だった。川口高校でGKになったのは、誰もいなかったからやむなく――ということらしい。
 身長のハンディを補うために、横山は自ら体を鍛え、つくり上げることを勉強し、実行した。ベテランの古川好男、絶頂期の保坂司といった先輩たちを追い上げ、63年から代表のゴールを守るようになる。
 64年の東京オリンピックではアルゼンチンに逆転勝ちして、日本サッカーの人気上昇の火をつけるが、横山はこの年の長期合宿で大学生であった釜本邦茂、小城得達などの若い仲間のフィジカルトレーニングのリーダーを務めた。横山は伸び盛りの仲間の体をつくり上げ、代表のレベルアップにかかわった忘れ難い功労者の一人といえるだろう。
 日本代表、日本サッカーリーグでの選手生活を終えて、三菱の監督を務め、日本代表の監督も務めた。選手としても監督としても立派な業績は、前号で記したとおりだが、その底を流れるのは一貫して勉強し、実行する姿勢だった。70歳の銅メダリストは今も、戦術の研究を続けているという。


(月刊グラン2013年7月号 No.232)

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