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50年前の代表の守りを支え、東洋工業黄金期を経て サンフレッチェの基礎を築いたサッカー人 小沢 通宏(上)

半世紀前のDFの要

 強豪国のFWを相手にしたコンフェデレーションズカップ2013の3連敗で、吉田麻也たち日本代表のディフェンダー陣はミスを指摘され、批判の矢面に立たされることになった。彼らの懸命なプレーを眺めながら、半世紀前の日本代表とDF小沢通宏の忍従の戦いに思いを重ねていた。
 日本サッカーの技術レベルが低く、代表チームはアジアの試合でも、常に守勢に立つことの多かった1955年からの10年間、小沢はDFの要となり、メルボルン・オリンピック(56年)をはじめ、95試合(Aマッチ36試合)に出場し、東京オリンピックでは代表の選に漏れたが、その翌年からの日本サッカーリーグで、東洋工業蹴球部(現・サンフレッチェ広島)のリーダーとして、初の全国リーグのチャンピオンとなって4年連続優勝の基礎を固めた。
 34歳で選手を引退、東洋工業(現・マツダ)の社業に励んだ。総務部長の要職に就き、93年のプロ化に際しては、一時期、不参加表明をした会社の意見を取りまとめて参加とし、サンフレッチェ広島誕生に尽力。土地柄を生かして、育成型クラブを目指したサンフレッチェは昨年、Jリーグのタイトルを取った。
 アマチュア・プレーヤーとして、高校、大学で優勝し、東洋工業でもリーグチャンピオン、天皇杯優勝を遂げ、プロのサンフレッチェの基礎を築いた80歳のサッカー人の生涯は――。


“超高校級”チームの一員として

 小沢通宏がサッカー選手として知られるのは、栃木県の宇都宮高のとき、1950年1月、大阪と神戸の中間、阪急電鉄の西宮北口駅に近い西宮球技場での第28回全国高等学校蹴球選手権大会(現・全国高等学校サッカー選手権大会)だった。この年、宇都宮高イレブンは2年生主力ながら決勝まで進んで、大阪の池田高に敗れ、準優勝となった。1回戦で京都の堀川高を4―0、準々決勝で都立九高を3―1、準決勝で山口東高を3―1で破った攻撃力から宇都宮高優勢と見られていたが、池田高の動きが素晴らしく、0―2で敗れた。宇都宮高は前年にも北関東代表として出場した1回戦で山梨県・中部代表の韮崎に0―5で敗退した。小沢はFBとして仲間とともに出場しているが、さすがに1年生では本大会は荷が重かったのかもしれない。
 翌年、3年連続出場となった宇都宮高は圧倒的な強さを見せた。全国の予選を経た16チームのノックアウトシステムの大会で1回戦は6―1西京高(京都・近畿)、準々決勝は2―0関西高(岡山・中国)、準決勝は5―1岸和田高(大阪・近畿)と勝ち上がり、決勝で小田原高(神奈川・南関東)を4―0で下した。関西高には後に代表の仲間となる景山(高森)泰男、岸和田高には平木隆三、小田原高には内野正雄がいたが、体格、走力、技術の優れた宇都宮高を止めることはできなかった。宇都宮高は170センチ以上が多くて、当時としては大型のチーム。FWの岩渕功、筧晃一などの突進力、シュート力が目立っていた。
 FBとして最後尾を守った小沢は、実は体は弱い方で、サッカーを始めるには、健康を案じる家族の猛反対があったとのこと。持ち前の意思の強さで希望を押し通し、“超高校級”チームの一員となった。
 32年12月25日、兵庫県生まれ、父の仕事で東京に移り、太平洋戦争中に疎開で宇都宮に住み、ここがサッカーの出発点となった。
 宇都宮高が優勝した29回大会は、大戦後の47年に26回大会で復活(当時は全国中等学校選手権大会)してから4回目。私自身はまだ新聞記者になっていなかったが、高校や大学の指導もし、大会にもかかわりがあった。宇都宮という遠い土地のチームに興味を持ったのは、戦時中の陸軍のパイロットの教育を宇都宮の郊外、壬生飛行場で受けたことにもよる。その壬生での教官が岸和田高の先生となっていて、試合の応援に来場し、思わぬ再会となったのもサッカーの不思議な縁――。
 選手・小沢は高校を出て、東京教育大学(現・筑波大学)へ進み、1年生で関東大学リーグに出場、2年間は下位にいた後、53年にリーグ優勝した。東京高等師範時代から28年ぶりだった。12月に東西大学王座決定戦で関西学生リーグの関西大学と戦い、0―3で敗れた。関大ではかつての仲間、筧が活躍した。
 55年に教育大を卒業して、広島の東洋工業に入社した。原爆の焼け野原から立ち直ろうとする広島にあって、東洋工業は社業とともにサッカー部の強化にも力を入れていた。入社2年目の56年6月、小沢通宏は大役を与えられた。日本代表チームのCDF、相手は韓国だった。


(月刊グラン2013年8月号 No.233)

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