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韓国の猛攻を食い止め メルボルン・オリンピック出場へ導いたDF 小沢 通宏(中)

Aマッチ初出場を勝利で飾る

 7月28日夜、私たちはソウルでの東アジアカップで日本代表が韓国を破るのを見た。パワフルな韓国の攻めに堪えながら好機を生かす今の代表に私は、58年前の小沢通宏たちの姿が重なって見えるのだった。

 1956年のメルボルン・オリンピックは初めての南半球での大会で、開催時期は11月〜12月(現地の夏期)。大会競技の一つ、サッカーは、この大会から参加申し込み国の地域予選を行うことにした。日本と韓国が予選第12組で対決することになった。第1戦は56年6月3日、第2戦は6月10日(ともに日曜日)。会場は東京の後楽園競輪場だった。

 ホーム・アンド・アウェーが原則のこの種の対戦を2試合とも日本で行うのは、54年のワールドカップ予選の時と同様に韓国政府の日本チームの入国拒否(今から見れば不思議な話だが)によるもの。会場が後楽園競輪場となったのは、神宮競技場が58年の第3回アジア競技大会(東京)の主会場になるための改装工事に入っていたから──。

 日本代表は54年の第2回アジア競技大会の後、大幅な若返り策をとり、前年1月には岩谷俊夫コーチ(第2回殿堂入り)のもとに3週間に及ぶビルマ・タイ遠征の経験を積ませた。

 6月3日第1戦のラインアップは▽GK古川好男▽DF平木隆三、小沢通宏、景山泰男、佐藤弘明、大村和市郎▽FW鴇田正憲、内野正雄、八重樫茂生、小林忠生、岩渕功とビルマ遠征組が主力となったが、川本泰三コーチ(第1回殿堂入り)は新しい顔としてGK古川、DF小沢、FW八重樫を組み込んだ。当時の韓国には崔貞敏という出色のストライカーがいて、彼の突破力と、それを助けるFW、MFの運動量と高いボールテクニックはアジアでもトップ級。

 日本のメディアの予想でも韓国優勢の声が多かったが、終わってみれば日本の2―0、快勝だった。23歳の若いCDF小沢を軸とする3DFと守備的MF群が、粘り強く守った。そして、ベテランの右ウイングFW鴇田が得意のドリブルで相手をかわしつつ、守りのための時間稼ぎをするとともに、攻めに転じたときにはパスの起点となってゴールを生み出した。「韓国選手は、この日の後楽園のような夜間の雨で滑りやすくなったピッチは不得手で、鴇田のドリブルに手を焼く形となった」と川本コーチは言っている。圧倒的に押し込まれても、そのうちにチャンスが生まれ、ゴールを奪えばDFたちも元気が出る──という理想的な展開となり、後半9分、鴇田から送られたパスを後方から飛び出した内野がヘディングして1―0、32分には鴇田から右前の八重樫へパスが出て、そこからのクロスを岩渕が決めて2―0とした。

 相手の崔貞敏が後退してボールをキープしても、CDFは引き出されることなく、ゴール正面をカバーするという作戦通りの仕事を小沢は見事に果たし、Aマッチ初登場を勝利で飾った。


最も力を出し尽くした試合

 第2戦の6月10日は晴天、ピッチコンディションは良好だった。第1戦で右足を痛めた鴇田正憲は休み、同年31歳の岩谷俊夫が入ったが、韓国は中盤からロングボール攻撃を仕掛けてきた。前半早々に第1戦の殊勲者、内野正雄が左足を負傷してほとんど動けなくなり(当時は交代の制度はなかった)、日本は10人同様となり、不利になった。前半はGK古川好男の好守で0―0だったが、徐々にゴール前釘付けの時間が長くなって、後半13分に先制され、20分には崔貞敏に2点目を奪われた。

 90分を終わって0―2、第1戦と合わせて1勝1敗、2―2となったため、15分ハーフの延長で決めることになったが、0―0のまま終わった。延長前半の8分に大村和市郎の攻撃参加とクロスで八重樫茂生のゴールが生まれたが、一度ゴールと認めたトロンケ主審が韓国の抗議(線審がオフサイドの旗を上げていた)の後、判定を取り消すといった場面もあった。

 ここで、メルボルン行きを決めるための抽選が行われ(こういうときにPK戦が導入されるのは20年後)、韓国側が先に引いて白紙を取り、日本側が「VICTORY」と書かれた紙を手にし、20年ぶりのオリンピック出場が決まった。川本泰三コーチは「選手たちにはおそらくこれまでの人生で最も力を出し尽くした試合となったろう」と賞賛したが、韓国の猛攻を3時間30分にわたって2点で食い止めた3DFもまた、高く評価された。


(月刊グラン2013年9月号 No.234)

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