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“東京”の選考はもれたが アマの東洋工、プロのサンフレッチェを日本一に 小沢 通宏(下)

日本代表の苦難時代

 8月24日にNHK―BS1で特別番組『伝説の名勝負 栄光の銅メダル!』が放送され、1968年メキシコ・オリンピック3位決定戦、日本対メキシコ(2―0)のフルタイム映像が解説を加えて放送された。

 連載中の小沢通宏(1932年12月25日生)は、このメキシコ・オリンピックの12年前の56年メルボルン・オリンピック代表。太平洋戦争と、そのあとの経済困難による低迷期に日本サッカーを支えた一人だった。

 今回はメルボルンの本番と、それ以降のこのCDFのサッカー人生を──。

 初の南半球、オーストラリアでの大会は、期間を11月下旬〜12月としたおかげで、6月の予選後も日本代表は相当な練習期間を持つことができた。1回戦の相手が開催国オーストラリアと決まったとき、ベスト8進出を期待する声もあったが、11月27日の第1戦で日本代表は0―2で完敗した。ファウルをともなうオーストラリアの激しいプレーに、日本は受け身になり、PKで先制点を奪われ、後半にも追加された。

 この大会では、社会主義国代表チームの個人技、組織力に接し、世界への目を開いたことは得難い経験だったが、選手たちは一様に日本と世界の差を感じたという。
 メルボルン大会での敗戦から、小沢と日本代表の苦難が続くことになる。

 58年の第3回アジア大会(東京)ではホームの観客の前で、日本代表はフィリピンに0―1、香港に0―2で敗れ、1次リーグで敗退した。ローマ・オリンピック予選での対韓国との1回戦(59年12月13、20日=東京)も0―2、1―0の1勝1敗。2試合合計得点の差で敗退した。


広島と日本のサッカーの歩み

 1964年に第18回オリンピック大会の東京開催を控えている日本にとって、直前のローマ大会の予選に敗れたことから、東京大会の開催国として恥ずかしくない成績を挙げるためにと考えられたのが、外国人プロフェショナルコーチによる代表強化だった。

 日本蹴球協会(当時)の要請を受けて、西ドイツ協会のデットマル・クラーマーがその仕事を引き受けた。彼とその成果については既に広く知られている。この連載でも何度となく登場した。

 小沢は60年夏、西ドイツ・デュイスブルグのスポーツシューレ(スポーツ学校)での彼と日本代表との初対面から4年間、日本代表チームとともに“東京”を目指す努力を続けた。

 代表の進化は、始めは遅々たるものだったが、3年目あたりから目に見えてきた。杉山隆一、宮本輝紀、釜本邦茂といった、小沢よりも10歳も若い選手の加入が拍車をかけた。

 64年夏の欧州転戦の最後、スイスでの対グラスホッパー・クラブ(4―0)との快勝に、代表チームの長沼健監督、岡野俊一郎コーチは確かな手応えを感じていた。

 東京オリンピックの本番直前に代表選手19人が発表されたが、その中に小沢通宏の名はなかった。長沼監督にとって徐々に体力的な衰えの見え始めた小沢を選考から外すのは、まさに苦渋の決断だったろう。アマチュアの選手にとって4年に1回のオリンピックに出場することは、人生でも格別の意味を持つのだが……。

 東京オリンピックで“小沢抜き”の代表チームはアルゼンチンを破るという金星で、開催国の面目を保ち、日本でのサッカー人気上昇の火をつけた。

 65年、日本サッカーリーグ(JSL)が誕生し、企業チームの全国リーグという新機軸で日本サッカーは新時代に足を踏み入れたが、初年度優勝チームが東洋工業(現・サンフレッチェ広島)──小沢通宏はそのDFの軸だった。

 彼らは66年1月の天皇杯に優勝して2冠となる。“東京”から外れた小沢は自らのチームを日本一にすることで選手生活の終盤を飾った。

 東洋工業(後にマツダ)はJSLの強豪であり続け、93年のプロ化Jリーグのスタートのときにもサンフレッチェ広島として参加した。

 当時、経済的に厳しかった広島、中国地方でプロ化に踏み切るには多少のためらいもあったようだが、マツダの社員や、市民の声に応えてプロ化に進んだ。そのとき、社内の総務部長の立場に小沢通宏がいたことが大きな力となった。若くして日本代表となり、輝きと苦難を経験した後、アマチュアの日本一、プロリーグの日本一のチームを生み出した。この人のサッカー人生は、そのまま、広島と日本のサッカーの歩みでもある。


(月刊グラン2013年10月号 No.235)

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