賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >一浪中の個人練習で腕を上げ、神戸経大の主となり 日本代表となった戦中派 則武 謙(上)

一浪中の個人練習で腕を上げ、神戸経大の主となり 日本代表となった戦中派 則武 謙(上)

兄・太郎の親友として

 則武謙という日本代表選手の名は、JFA発行の『日本代表公式記録集2008』583ページに記載されている。1922年7月18日生まれ。代表1950―51年。日本郵船勤務。出身は神戸一中(旧制)―神戸経済大(現・神戸大)―日本郵船とある。亡くなったのは1994年3月6日(その記載はないが……)。代表の試合数は1(2)とあるから2試合に出場、そのうち1試合がAマッチということなのだろう。

 この簡単な略歴からでは、この人のサッカー人生を読み取ることは難しいが、私の兄・太郎の神戸一中(現・神戸高)、神戸経大以来の親友であったから、私はこの『日本代表公式記録集2008』の20字そこそこの記録から、その背後にある則武さんの72年にわたるサッカー人生と積み上げた業績の数々を見ることができる。

 その実績のなかに神戸一中での天覧試合優勝(1939年、明治神宮大会)や神戸経大での関西学生リーグ優勝、1951年の第1回アジア競技大会での日本代表銅メダルなどもあるが、入試失敗後の一浪中に個人練習で腕を伸ばしたこと、大学卒業後は慶応BRB(慶応大ソッカー部のOBと学生を中心としたチーム)のレギュラーとして天皇杯チャンピオンになるといった型破りの経験もある。

 大戦直後に自ら力を蓄えた神戸経大は国立大学でありながら関西学生リーグのチャンピオンとなり、ある時期、全神戸経大(あるいは全神戸大)の名で全国のトップクラスでもあった。その神戸経大サッカークラブの主でもあった則武さんのストーリーは、誠に楽しいサッカー物語でもある。


マネジャーから選手に

 「則武」を略して仲間は「ノリ」、後輩は「ノリさん」と呼んだ。1934年、旧制・神戸一中に入学した。兄・太郎とは1年生のクラス対抗の野球試合で、投手・賀川、捕手・則武のバッテリーを組んだのが交友の始まりだったらしい。

 中1のときから蹴球部(サッカー部)に入りながら、それほど練習熱心でなかった太郎だが、素質に恵まれていたせいか、3年生になると(当時の旧制中学は5年制)レギュラーとなり、夏の第19回全国中等学校蹴球選手権予選で勝ち、本番でも決勝に進んだが、炎天下の連戦に埼玉師範に敗れた。

 ノリさんは、そのころしばらくサッカー部から離れていた。部に戻ったのは4年生の秋。第20回全国中等学校蹴球選手権大会で優勝したあと、太郎が次の年のキャプテンとなった時だった。連続優勝を目指すチームをつくるために、仲の良いノリさんをマネジャーにと太郎が要請したのだろう。

 キャプテンの太郎たちは4月になって、当時の蹴球部長であった河本春男先生が急に岡山女子師範に転任することを知らされる。すでに神戸一中で全国優勝を重ねた敏腕の部長の急な転任はチームに大きな打撃となった。

 大阪毎日新聞社主催の夏の全国大会の直前になって4年生のCFが負傷でメンバーから外れ、5年生の「ノリさん」が突然、マネジャーから選手となり、CFのポジションに入った。兵庫予選を突破し、第21回全国中等学校蹴球選手権大会の本番では2回戦で敗退した。急なメンバー変更が原因というより、全体にコンディショニングが落ちていた。

 気を取り直して、秋の明治神宮大会で優勝したのは幸い──。この時の気迫のこもった練習は今も記憶に残るが、ノリさんは、この二つ大会で試合に出場しながら自分で思うように働けなかったのが残念だった。


(月刊グラン2013年11月号 No.236)

↑ このページの先頭に戻る