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一浪中に毎日50本センタリングの練習 自らの工夫で進化した第1回アジア大会3位のFW 則武 謙(中)

神戸の大学で強いチームを

 1951年、第1回アジア大会3位となった日本代表のFW、則武謙の型破りなサッカー人生――。

 則武さんは40年、神戸一中(旧制、現・神戸高)卒業の年、金沢の第四高等学校を受験して不合格、浪人となる。戦前の神戸で有名な進学校(5年制)であった神戸一中でも、このころ、受験浪人を学校で勉強させる“補習”を行うようになっていた。

 ノリさん(則武謙の愛称)は、仲間たちとこの補習授業に通学したが、その授業が午前で終わったあと、ボールを蹴るのがこの人の日課になった。昼休みが終わって在校生が教室に戻り、誰もいなくなった広いグラウンドでノリさんは一人でドリブルし、クロスを蹴っていた。サッカー部の浪人仲間が一緒だった。

 神戸一中の制服であるカーキ色の上着を脱いで同色の長いズボン、校内用の運動靴のままピッチの右サイドでハーフラインからドリブルし、ゴール前へセンタリング(クロスのこと)を上げるのを繰り返した。一日に50本は走って、蹴っていた。滑りやすいゴム底の運動靴で(もちろん土のグラウンド)相当なスピードで走り、角度のあるキックでゴール前へ高い球を送るのは、始めはうまくいかなかったが、繰り返すうちに正確に飛び、夏ごろにはゴールエリア左隅近くに適確に届くようになっていた。

 私はそれを教室の窓から見ながら、前年の夏にマネジャー(主務)という役割からメンバーに故障があったからと、FWの、それもセンターフォワードとなって急に大会に出ることになり、不本意だったノリさんの心のうちを推し量った。

 翌年、ノリさんは神戸商業大(のちの神戸経済大、現・神戸大)の予科に入学した。1年早く入学していた私の兄・太郎の「神戸で強い大学サッカーチームをつくろう」という誘いもあった。芦田信夫という親友も一浪入学して、トリオがそろった。予科の充実で神戸商大チームも強化されたはずだが、学校の方針で予科の生徒が大学チームで試合をすることを禁止されていたこともあり、神戸経大がサッカーで名を挙げるのは戦後のこととなる。

 42年に私も神戸商大予科に入学した。一番驚いたのはノリさんの進化だった。

 足は速くなっていた。長距離も強くなっていた。ドリブルし、チャンスをつくり、突進してボールを受け、シュートを決めていた。この人と太郎と私の3人で決めた岡山の大会でのゴールの軌跡は私の誇りの一つ。のちに自らがサッカー記者となり、プレーヤーの育成にも目を向けるようになって、旧制中学年代のU―16も基礎的に重要だが、ここからU―21までの3〜4年の充実した練習が、さらに大切と確信した。その根底にはノリさんの一浪時代のランとかクロスの練習の実例を見たことが大きい。


学徒出陣による中断

 神戸の大学で日本一のチームをつくろうという賀川太郎、則武謙、芦田信夫の望みは1941年12月8日の太平洋戦争の開戦と、そのあとの戦局の急転で中断された。

 43年、学徒徴兵猶予令の撤廃によって大学生も徴兵年齢(20歳)になれば兵役に就くことになった。神戸経済大(そのころ名を変えていた)のサッカー部員もまた、学窓から陸軍へ、海軍へ移っていた。

 12月1日に陸軍の鳥取連隊に入隊したノリさんは、一兵卒としてのシゴキを経験し、航空を志願して特別操縦見習士官となってからも、異常な教官のイジメに遭うのだが、その2年の軍隊生活で、この人は体と心がさらに強くなったらしい。

 戦争が終わると、関西で唯一、芝生のグラウンドとして残っていた西宮競技場でサッカーが再開されるのだが、兵庫や大阪のサッカー協会の首脳とともに音頭を取ったのがノリさんだった。

 この人より半年遅れて陸軍航空に入り、45年10月に北朝鮮から復員して京都の親類の家に戻った私にハガキが届いた。「生きていたらしいな、次の日曜日に西宮へクツとバッグを持って、兄キといっしょに来いよ」とあった。


(月刊グラン2013年12月号 No.237)

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