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大戦直後のサッカー再興とともに歩み 代表1試合出場で銅メダル獲得 則武 謙(下)

リーグ決戦前の2人合宿

 戦中派フットボラーで、日本代表として第1回アジア大会(1951年、インド・ニューデリー)3位のメンバー、則武謙――ノリさん(1922〜94年)――を紹介する3回目――。
 1945年8月に太平洋戦争が終わり、2カ月後に関西で唯一残っていた芝生のグラウンド、西宮球技場でサッカーの再興を告げる最初の試合が行われた。ノリさんや私の兄・太郎がその中心となっていた。

 翌年、1946年2月に東京から関東選抜、関東学生選抜の2チームが西下して、西宮でそれぞれ関西選抜、関西学生選抜と対戦した。学生選抜は、学業の途中で兵役についた私たちの世代が主力だった。ノリさんも私たち兄弟も出場した(2―2)。

 この年4月、復活した全日本選手権(現・天皇杯)の関西予選を勝ち抜いた全神戸経大(現・神戸大)クラブが関西代表となり、5月に東上して関東代表の東大LBと決勝を争った(2―6)。東京へ行くことが大仕事であったそのころ、ノリさんの手腕なしでチームの東上はなかっただろう。

 1936年のあとさき、大谷一二(故人、元日本代表)という不世出の名選手を中心に黄金期をつくり、そのあと不振だった神戸大のサッカーが大戦後に復活した。

 1946年の秋、関西学生リーグで神戸経大はリーグ優勝した。優勝候補の関西学院を3―2で破っての番狂わせだった。ノリさんは、この試合の前の3日間、戦友の芦田信夫さんとともに「山ごもり」と称して大学のグラウンド横の部屋で合宿した。部屋といってもゴールネットやボールなどの用具置き場にすぎない小屋に食料や寝具を持ち込んでの不自由な生活だったが、2人には対関学へ精神を集中させる重要な“合宿”だったという。

 1947年2月、復活した戦前からのビッグゲーム、全関東対全関西で、ノリさんは関西のHBとして出場、2―2で引き分けた。

 昭和天皇の天覧試合となったこの試合は、ベルリン組と1940年の幻の東京オリンピック組の合同チームといえる全関東を相手に、劣勢を伝えられた学生主力の全関西が気迫に満ちた戦いぶりで互角以上に戦った。試合後、選手たちの前を通られた陛下が予定になかったお言葉「今日は皆の元気な試合を見せてもらってありがとう、日本の復興のために尽くしてほしい」と述べられたのも、好試合に心を動かされたのだろうと推測された。


大学OB会の中心的存在

 ノリさんの利き足は右、必ずしも“上手”な選手ではなかったが、速くて、クレバー。トウキックには自信を持っていた。竹腰重丸(第1回日本サッカー殿堂入り)、川本泰三(同)といった当時の技術指導の先輩たちの評価はともかく、二宮洋一(第2回日本サッカー殿堂入り)は、ノリさんのその特異なプレーを見込んでいた。その二宮監督の下で、1951年の第1回アジア大会の代表となる。ニューデリーでノリさんはマネジャー役を受け持ち、練習試合の設定やチーム移動のバスの調達などで見事な交渉力を見せた。日本代表は準決勝(日本は1回戦が不戦勝で準決勝が初戦)でイランと引き分けたあと、再試合で敗れ、3位決定戦でアフガニスタンと戦った。ノリさんは、負傷した賀川太郎の代わりに出場し、3位獲得に働いた。

 戦中派の仲間はこのあとしばらく代表として活躍するが、ノリさんはニューデリー以後は代表から離れ、神戸経大クラブのメンバーあるいは慶應BRBの選手としてプレーを楽しむ。大学OB会では常に中心的存在として後輩の面倒を見た。

 また、ノリさんが日本郵船のロンドン支店にいたとき、兵庫県高校選抜の英国遠征チームが、あいさつに行くと「よく来たね、たいしたことはできないが、ロンドン滞在中の昼食の費用はボクが持つから」と言った話は、今も関係者の間で感謝とともに伝えられている。

 旧制中学時代にマネジャーとして働き、独自の練習を基盤に日本代表となって、後輩の面倒見のよかったノリさんの生涯を語るときに忘れられないのは、名古屋出身のドイツ語の加藤一郎先生との交流だが、これは別に私のブログで見ていただくことにし、型破りサッカー人の略史をここで止めることにしたい。


(月刊グラン2014年1月号 No.238)

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