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世界と日本に大きな影響を与えた 稀有なフットボーラー ペレ(上)

ペレの国、ブラジル

 昨年12月4日、2014年FIFAワールドカップ抽選会のテレビ中継で、私たちは日本代表の対戦相手を告げられ、本番近しの感を強くした。そのとき、女性大統領、ルセフさんのあいさつ「ブラジルはワールドカップ5回優勝の国であり、世界一のプレーヤー、ペレの国です」を聞きながら、私はあらためて、ブラジルとペレが世界と日本に与えた影響の大きさを思った。日本サッカーが今日のかたちになるまでの、そのときどきに大きな実績を残し、後にまで影響を及ぼした先人を紹介するこの連載に、今回はエドソン・アランチス・ドゥ・ナシメント、通称・ペレに登場してもらうことにした。

 私がペレという名を知ったのは、1958年の第5回ワールドカップのときだった。

 30年にウルグアイを開催国として始まったワールドカップは、34年(イタリア)、38年(フランス)と3回の大会の後、第2次大戦で中断し、大戦後に復活、50年大会をブラジルで開催した。このとき、公称20万人収容のマラカナン・スタジアムがリオデジャネイロに建設された(64年後の2014年大会でも大改装されて、メーン会場として使われる)。

 その自国での大会の決勝でブラジル代表が敗れた悲劇は、今も語り継がれている。次の54年大会(スイス)を経て、58年のスウェーデン大会でブラジルは初優勝、17歳のペレはこの大会でのプレーで、一躍、世界のスターとなった。ニュース映画によって、決勝の対スウェーデン戦での芸術的なゴールと喜びの涙にくれる少年の顔は世界中のサッカー好きの心をとらえた。

 以来、ペレとブラジル代表は62年大会(チリ)の優勝、66年大会(イングランド)でのグループリーグ敗退、70年大会(メキシコ)での優勝――と、ワールドカップのたびに、南米やヨーロッパからはるかに遠い日本のサッカー人たちにも関心を持たれるようになった。


“王様”のプレーに驚嘆

 日本は1954年のスイス大会予選に参加し韓国と対戦、1分1敗で敗退した。これが戦後の日韓交流のきっかけになったが、日本サッカー協会の関心はまず、アマチュアのオリンピックで勝つことにあった。デットマル・クラーマーという優れたドイツ人コーチの直接指導もあって、日本代表は64年の東京オリンピックで1勝し、68年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得すると、サッカー人の目はよりレベルの高い「世界選手権大会」のワールドカップに向けられた。

 2年後、メキシコで開催されたワールドカップで、円熟のペレとブラジル代表が3回目の優勝を遂げたときには、活字メディアの報道スペースも増え、大会の記録映画は日本でも上映された。

 67年にはブラジルのトップ・プロの一つ、パルメイラスが来日したこともあり、また、当時のトップリーグ、日本サッカーリーグのヤンマー・ディーゼルにネルソン吉村という日系3世が加わって、ブラジル流のプレーで釜本邦茂(メキシコ・オリンピック得点王)とともにチームの看板となり、リーグの魅力を高めたこともブラジルへの関心を深めることになった。

 71年にペレはブラジル代表チームから引退し、黄色(カナリアイエロー)のユニホームを脱いだが、その後も3年間、自分のクラブ、FCサントスではシンボルとしてプレーを続けた。そして、72年5月、ペレはサントスとともに来日、5月26日、東京・国立競技場で日本代表と対戦し、“神技”を見せた。

 彼のこの日のプレーをスタジアムの記者席からナマで見ることができたのは、私の長い記者生活の中でも、誠に貴重な経験だったが、当日、スタンドを埋めた観客も“王様”のプレーに驚嘆した。試合後は興奮した少年たちが「ペレ、ペレ」と泣き叫びながら彼のバスの後を追った光景を今も忘れることはできない。

 多くのスポーツが盛んなこの国で、当夜、国立競技場に居合わせた5万余のファンとテレビ中継を見た多くの人が、世界最高のプレーを味わい、サッカーへの心酔を深めた。日本のサッカー史上でも特筆すべき夜だった。


(月刊グラン2014年2月号 No.239)

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