賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >1956年天皇杯でキラリと光ったスピード “東京”の後も続く“代表”への情熱 渡辺 正(中)

1956年天皇杯でキラリと光ったスピード “東京”の後も続く“代表”への情熱 渡辺 正(中)

誰もが期待した彼のゴール

 メキシコ・オリンピック(1968年)の銅メダリストの一人、渡辺正選手を先号に続いての紹介する。
 今から46年前の10月のメキシコ・オリンピックで日本が1次リーグでナイジェリア、ブラジル、スペイン、準々決勝でフランス、準決勝でハンガリー、3位決定戦でメキシコと、いずれも名だたるサッカー強国と戦い、3位となったことは日本にプロフェッショナルが生まれ(当時のオリンピックはアマチュアだった)、世界のサッカー国の仲間入りをした“今”に置き換えてみても、生易しい仕事でなかったのだが……。その中でも第2戦となった対ブラジルは、相手側が日本についての研究を積んでいて、しかも前半に0−1となるという難しい試合だった。終了近くに投入された渡辺が、皆の期待どおりのゴールで同点とし、引き分けにしたことで、日本はここで2戦1勝1分となり、準々決勝進出の望みを強め、余裕を持って、第3戦のスペインとの対戦を迎えることができたのだった。
 渡辺を初めて見たのは56年5月6日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の県営陸上競技場での第36回天皇杯決勝だった。九州の実業団チーム、八幡製鐵(現・新日鐵住金)のFWとして、慶應BRBと戦った。優勝は慶應の学生とOBの連合チーム、BRBだったが、このときは優勝チームよりも敗れた八幡のなかで、渡辺のタテに出る速さが強く印象に残ったことを覚えている。広島の高校を出て入社したばかり、いわば無名の新人であった彼の電光石火ともいえる速さをスタンドから見て左手のゴール前で見たときの感銘は今も頭に残っている。


大学で再びサッカー漬け

   渡辺正が日本代表に組み込まれるのは、1957年10〜11月の中国遠征からだった。日本代表はメルボルン・オリンピック(56年)のアジア予選、対韓国を1勝1敗の後、抽選で出場権を獲得したが、オリンピック本番の1回戦でオーストラリアに完敗(0−2)した。その代表の立て直しを図るための新しい代表候補による中国での武者修行は1カ月に7試合、北京から広州までの大旅行だった。渡辺はこのうち3試合に出場している。
 この代表入りが刺激となって渡辺は翌年、東上して立教大学に入学。58年から大学サッカー部でプレーに取り組んだ。
 立教のサッカーは早慶に比べると歴史は浅いが、このころメンバーが充実し、関東大学リーグでも優勝を記録している。私自身のメモには立教の合宿所を訪れ、渡辺たちと池袋で会食した記録があるがおそらく、それだけストライカー候補としての彼への興味があったからだろう。
 立教での学生生活は62年3月まで、その間にも代表でプレーし、60年の欧州ツアーでデットマル・クラーマーに会い、指導を受けた。
 36年1月11日生まれの渡辺は、この東京オリンピックを目指す当時の代表候補では川淵三郎(36年12月3日生まれ、後の第10代JFAキャプテン)たちとともにチームの中堅世代。八重樫茂生(33年生まれ)らと攻撃の柱になろうとしていた。
 次の世代にはアジアユースという高校生で“国際舞台”を経験した宮本輝紀、杉山隆一たちがいた。FWには渡辺と同年代に突出して優秀なセンターフォワード(CF)がいたが、途中で消え、44年生まれの釜本邦茂がやがて台頭してくる。
 日本サッカーの50年代末から60年代初期の低迷時代を経験しつつ、クラーマーの指導の下で光を求めた渡辺たちは、やがて64年の東京オリンピックという檜舞台を迎える。
 渡辺は第1戦(対アルゼンチン)、第2戦(対ガーナ)は控えとなり、準々決勝の対チェコスロバキアに起用された。試合そのものは両チームの攻守の切り替えが早く、見ていて楽しいものだったが、決定力の差は大きく、0−4で敗れた。大阪での5、6位決定トーナメントの1回戦、対ユーゴスラビアも控えとなった渡辺には、64年のオリンピック出場は1試合だけに終わったが、彼の代表へのプレーの熱意は変わることはなかった。


(月刊グラン2014年6月号 No.243)

↑ このページの先頭に戻る