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アーセナルでゴールを決めた釜本とともに 銅メダル獲得の攻撃の先頭に立ったFW 渡辺 正(下)

 FIFAワールドカップ・ブラジル大会の日本代表壮行試合ともいうべきキリンチャレンジカップ2014、日本対キプロス戦が5月27日に埼玉スタジアムで行われ、日本が1−0で勝った。第1次合宿で体力トレーニングを終えたばかりの選手たちは、その疲れからか、いささか動きは鈍かったが、登場した17人のほとんどが順調に本番へ向けて仕上がってゆく過程にあることをみせた。
 この連載の主人公である渡辺正(故人、1968年メキシコ・オリンピック銅メダルFW、第3回日本サッカー殿堂入り、1936〜95年)の後継者として私がみている岡崎慎司も、唯一のゴールに絡んで、ゴール前での落ち着き、自信、アイデアの一端をみせていた。


28歳からの再挑戦

 さて、渡辺正の銅メダル人生の3回目――28歳で東京オリンピックの代表となって1試合に出場した後も、渡辺は代表でプレーを続ける。
 大器・釜本邦茂が成長してCFとしての位置を占めるようになり、渡辺は右サイドにまわっていた。東京オリンピックの翌年、1965年3月の東南アジア5カ国遠征(7試合)、7〜8月のソ連・欧州遠征(10試合)に始まり、66年のソ連・欧州遠征、バンコクでの第5回アジア競技大会にも参加した。バンコクでは酷暑のなか、10日間で7試合の過酷なスケジュールだった。日本は3位、銅メダルを獲得し、渡辺はこのうち3試合に出場した。同じ右サイドには5歳若い松本育夫が成長し、競争相手となっていた。当時アマチュアであった日本代表が初めてプロフェッショナルと対戦した66年6月26日の対スターリング・アルビオン(スコットランド)で渡辺は先制ゴール(2−4)を挙げて、駒沢競技場を沸かせたこともある。
 67年6月にはブラジルの有名チーム、パルメイラスを迎えての3連戦の第2戦で、日本は2−1の対プロ初勝利を記録した。徐々にチーム力の上昇を示すチームの中には、渡辺の名があった。67年7月に南米遠征(ペルーで2試合、ブラジルで4試合)をした後の代表は、9月27日から10月10日までのメキシコ・オリンピックアジア予選に出場、6カ国の集結大会で日本は4勝1分で本番への出場権を得た。渡辺は対フィリピン、対台湾と最後の対南ベトナム戦に出場し、予選優勝の後、日の丸を掲げて国立競技場を一周した。
 68年3月、日本代表はメキシコの高度順応を兼ねてメキシコと豪州へ遠征。そこで渡辺は、ドイツへ単身サッカー留学した釜本の2カ月間での変身を知る。


釜本のアーセナル戦ゴール演出

 1968年5月、イングランドの名門プロ、アーセナルを迎えた3試合での第1戦で釜本邦茂がヘディングゴールを決めて驚かせたが、この8分の先制ゴールは右サイドの渡辺正からの早いクロスから生まれた。渡辺のドリブルと、それに続くクロスを、相手DFのニアサイドに飛び込んだ釜本のダイビングヘッドのゴールと、その後の国立競技場のどよめきは、私にも忘れることのできないもの。クロスをニアサイドで合わせるイングランド流のお株を奪うゴールと記憶された。「ガマッチョ(釜本のこと)がニアに入ってくるようになってくれた」というのがこの時の渡辺の言葉だった。
 70−71シーズンにリーグとFAカップの2冠を取る天下のアーセナルから奪ったゴールは、釜本にとっても大きな自信となり、秋のメキシコ・オリンピック本番での活躍につながる。
 そのオリンピックで渡辺は2得点し、釜本(7得点)とともにただ2人の日本チーム得点者となるが、準々決勝の対フランス戦で釜本が奪った2点目のドリブルシュートの時も、渡辺の突進によって相手のGKを牽制したプレーがあったことも付け加えたい。
 「相手のバックパスをさらってゴールした渡辺は、代表からはずせない選手だ」とは、ある時期のクラーマーの言葉だが、その特異なゴール感覚でオリンピック銅メダルに貢献した彼は34歳で代表を退いた。
 80年5月に代表監督に就任しながら病に倒れた彼の育成強化への情熱については、別の機会に――。


(月刊グラン2014年7月号 No.244)

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