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番外編 王国でのワールドカップ取材 楽しく刺激的なブラジルの旅

セルジオ越後とともに

 ブラジルへ出かけました。日本代表の2試合とアメリカの1試合を見ただけの短期の旅でしたが、サッカー王国でのワールドカップは、とても面白く、89歳の私にも新しい刺激でした――。連載の番外編“ブラジル・ワールドカップ小さな旅”をお届けします。

 1974年の西ドイツ大会以来、9回の大会と、その合間に開催されるヨーロッパ選手権(4年ごと)は、私の人生の一つとなり、大会を見て、『ワールドカップの旅』『欧州選手権の旅』をサッカーマガジン誌に書くことは、サンケイスポーツの編集局長時代にも、その後のフリーランス時代にも、35年にわたる大切な仕事で、楽しみだった。そのワールドカップへの10回目の取材となるはずの南アフリカ大会(2010年)は、体調不良で取りやめにした。今回も体調と89歳という年齢を考えて、取材の手続きをすませながら現地の交通事情などで躊躇したが、セルジオ越後さんから「私の生まれ育った国のワールドカップは絶対に見てくれ」と強く勧められ、「セルジオと大会を見るツアー」に加わった。年来の仕事仲間の本多克己さんがツアーに同行して日常の気配りを、試合会場ではベテラン記者・大住良之さん(月刊グランで皆さんにおなじみ)が面倒をみてくれるという、もったいないような取材旅行となった。
 南米へはこれまでアルゼンチンへ2度(78年W杯、87年コパ・アメリカ)、ウルグアイへ1度(80年コパ・デ・オロ)と3回出かけ、ブラジルのサンパウロやリオデジャネイロには立ち寄ってニオイをかいだことがあるが、長く滞在したことはない。今回は日本代表の会場であるレシフェとナタールという北東部の町を見たことで、この広い国の一面を肌で感じたのは幸いだった。成田からアメリカのダラスまで10時間、ここからサンパウロまで10時間、サンパウロからレシフェまで3時間の飛行は長くはあっても安全快適だった。
 レシフェからナタールのバスでの5時間半(350キロ)の移動は見渡す限りのサトウキビ畑に豊かさを見た。大西洋に面したこのあたりは塩の生産地で漁業が盛んで、魚も食べるとか――。ブラジルといえば肉料理が代表格だが、フライなどの魚料理も美味しかった。


サンパウロの巨大サッカーミュージアム

 帰途の中継地、サンパウロでの一日はアイルトン・セナの墓に詣で、大会会場のスタジアムを外から眺め、コリンチャンスのスタジアムに併設されたフットボール・ミュージアムをのぞいた。緑の広い墓地にあるセナの墓は、今も詣でる人が絶えず、この日も自動車製造を勉強している地元の大学生たちと出会った。
 フットボール・ミュージアムはスタジアムの一角に設けられ、三層になっていて、その規模の大きなことは驚くばかり。英国留学から2個のボールを持って帰国したブラジル・サッカーの始祖、チャールズ・ミラーに始まり、ワールドカップ5度の優勝を誇る代表の試合、おなじみのペレをはじめとする大スターたちと、この国のサッカー史の光彩がテレビ映像、スチール、絵画、彫像など、さまざまな手法で展示されている。50年の自国開催のワールドカップ決勝で敗れたマラカナンの悲劇の映像は真っ暗な中で見るという演出で、一日いても見飽きることのない豊富な資料を楽しむことができるだろう。設立は5年くらい前とのこと。ブラジルは「フットボール(サッカー)指導書を探しても見あたらない」それは「指導書がなくても自然に体で覚えるからだ」と言われていたが、今では自らの歴史を振り返る時代となり、体だけでなく、頭でもフットボールを身につける時期となったのだろう。多くの観客とともに私はブラジルサッカーの底の深さと、大きさの一端を知った。
 ナタールのスタジアム内のプレスルームで「FIFAドットコム」のインタビューを受けた。89歳と5カ月半の私がこの大会の取材に集まった各国記者の中で最年長というのが理由であった。現地のスポーツ紙にも写真とともに記事が掲載されて、その後もいくつかの取材が入り、年寄りへの歓迎に驚いた。セルジオが喜んでくれて、次のロシア大会も一緒に行こうと言ってくれた。本人もその気になるのが、ワールドカップの魔力というべきか――。日本の試合についてはまた別の機会に――。


(月刊グラン2014年8月号 No.245)

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