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番外編 「もっとボールを蹴りたかった」 戦争に倒れたサッカー仲間を思う鎮魂の8月

8月15日、終戦の日がやってくる。私たち戦中派にとって8月は格別の日を迎える格別の月でもある。
 日本サッカーの歴史の中で、そのときどきに影響を与えた人を紹介するこの連載の2014年の夏の今号は「戦陣に散り、戦野に若い生命を捧げたサッカー界の先人や仲間」を悼む番外編としたい。
 サッカー界の戦没者についてはこれまでも折に触れ記したことはあるが、必ずしも十分とはいえなかった。今回も同様だが、いずれ各高校や大学のOB会などのご協力を得て、まとめていきたいと思っている。


ベルリン五輪、2人の得点者が戦死

 日本代表選手の中で戦死者が目立つのは、1936(昭和11)年のベルリン・オリンピック代表チーム。8月4日の大会1回戦(ノックアウト制)でスウェーデン代表を3−2で破り、ベルリンの奇跡と評判になった。この試合で日本の2点目を決めた右近徳太郎(慶応大)と、3点目、つまり決勝ゴールを決めた松永行(東京文理大=現・筑波大)が太平洋戦争で戦死している。右近さんは戦病死と発表されているが、南方の第一線での病死だから、私は戦死扱いが妥当としている。このチームのキャプテンでDFであった竹内悌三(東京帝大=現・東京大)は大戦後、ソ連によるシベリア抑留中に死亡した。戦場でなくても軍隊にいたための(不法)抑留であり、その犠牲だった。控えのFWの高橋豊二(東京帝大)は海軍のパイロットとなり、飛行事故で亡くなった。高橋さんは高橋是清の孫で、東大でも代表でも「マゴ」がアダ名だった。
 右近さんは私自身が旧制中学生のころ、直接チョップ・キックを教えてもらったこともあり、また後輩の合宿で中学生だった兄・太郎の足のマッサージをしてくれた優しい先輩だった。その卓越したドリブルやどのポジションでもこなす能力は、大戦後の日本サッカーの復興にとても大きなプラスであったはずと今も思い続けている。
 私より11歳年長の右近さんは神戸一中(現・神戸高)4年生の時、現在の高校サッカー選手権の前身となる第12回全国中等学校蹴球選手権大会に優勝している。最上級生のFWに大谷一二(1934年の極東大会日本代表)やDFに加藤正信(神戸FC創設者)など、そうそうたるメンバーがいたときだが、このときのメンバーでは、右近さんのほかに5年生キャプテンでDFの山本卓美、MFの小橋信吉、攻撃的MFの前川有三の3人が戦死している。
 神戸一中31回卒業の山本主将は神戸高等商船に進み、海の男となって太平洋戦争では海軍に編入されて戦死。加藤さんによると人格的にも素晴らしいキャプテンだったとのこと。山本、加藤の両FBの長蹴球力によって、神戸一中伝統のショートパスの上に、右近、大谷という両サイドのドリブル力を生かせる攻撃もしていたという。前川さんは大谷さんより2年下で、神戸高商へ進んでから大谷さんとの左サイドのペアプレーは関西代表として注目された。


幻の東京オリンピック候補たち

 小橋信吉は神戸一中の2年生でレギュラーだったから、技術も体力もよほど優れていたことになるが、この人が5年生のときの1932(昭和7年)度の神戸一中もまた、第15回全国中等学校蹴球選手権で優勝している。
 このころは2FB制でロービング・センターハーフと称するCHが中央で最も運動量が大きく、攻守の要となっていた時期で、小橋さんはまさに適役だった。この年代には、後に慶応の黄金期のキャプテンとなる播磨幸太郎というドリブルの名手がいて、小橋さんとともにチームを牽引した。ベルリン世代より少し若いこの時代の選手は1940年の幻の東京オリンピックを目指すことになるのだが……。
 このときの5年生、34回生の中にもDFの柴田淑彦が戦死とある。柴田さんは小柄でスライディングタックルが上手だった。後輩思いで、中学生の夏の練習にも毎日のように顔を出してくれた。
 このときの優勝メンバーの一人で、第四高等学校(現・金沢大)−京大に進んで、京大の黄金期をつくった小野礼年さんはビルマ戦線で苦労した。あの無理ともいえるインパール作戦に中隊長として参加し、敗走する部下をまとめて大変な苦労をしたという。ご本人の口からついに直接聞くことはなかったが、周囲の話では小野さんの指揮だから多くの兵士が生きて帰ったとのことだった。この戦いで体を使い果たした小野さんは、大戦後、二度とボールを蹴ることはなかった。
 私の同世代からも戦死者が出た。神戸商大予科(現・神戸大)で兄・太郎の同期、灘中(現・灘高)から来た西田二郎が海軍の防空隊で戦死した。終戦の年、それも7月24日だった。西田さんは足がとても速く、人のプレーを褒めるのが上手だった。
 灘中時代に軟式テニスで全国優勝した杉本栄一は、予科サッカー部でも頭角を現した。私より一級下の彼は、私より後から軍隊に入り戦死した。身近な周囲を見渡すだけで、日本代表や日本代表を目指したサッカー仲間の多くが戦いに倒れ、二度とグラウンドに戻ってこなかった。
 彼らを思い、彼らとともにサッカーを愛しみ、ワールドカップを楽しみたいと思う。


(月刊グラン2014年9月号 No.246)

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