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東京高等師範学校で運動会 フットボール部をつくったオリンピックの父 嘉納治五郎(上)

東京オリンピックから50周年

 10月10日は体育の日(1999年まで=現在は10月の第2月曜日)でした。1964(昭和39)年のこの日に第18回オリンピック東京大会が開幕(10月24日まで)したのを記念したものです。6年後の2020年に2度目の東京オリンピックを迎える準備も進んでいますが、“64年東京”の50周年でもあり、日本にオリンピックを根づかせた嘉納治五郎さん(1860〜1938年)に登場を願うことにしました。
 日本でスポーツを学ぶもので嘉納治五郎さんの名を知らない人はいないだろう。柔道の講道館を創設し、現在の“世界の柔道”へと発展させ、また日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となって、日本でのオリンピック活動の先頭に立ったこと、教育者として、1893(明治26)年から1920(大正9)年まで東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長を務め、スポーツを奨励し、多くの教育者、スポーツ指導者を送り出したなど――その業績や人柄については多くの著作が出版されている。サッカー畑の私たちにとっても@東京高師の校長時代にスポーツを奨励し、1896年に学校内に運動会を設けて学生すべてに参加させ、その最初の8部の中に柔道部やローンテニス部などとともにフートボール(サッカー)部があり、東京高師が日本の学校の中でサッカーの先駆者となる素地がつくられたことAオリンピックによって日本のスポーツの国際化が進み、サッカーもまたオリンピックに参加することでレベルアップし、普及が進んだこと――など嘉納さんの恩恵を受けている。


幼少から秀才

 嘉納治五郎さんは1860年(万延元)年10月28日、現在の神戸市東灘区御影の酒造の豪家、嘉納家の生まれ。
 幼名を伸之助といい、三男で兄姉の5番目だったところから治五郎と名付けられたが、幼年期から勉強のできた子供だったらしい。
 7歳で母・定子が亡くなり、父と兄とともに上京した。徳川幕府が倒れ、明治新政府の下、活気に満ちた東京で治五郎は英語、ドイツ語などを学び、1873(明治6)年、育英義塾に入学し、翌年には官立外国語学校に入り、卒業後、1875年に官立開成学校に入学した。2年後(1877年)に開成学校は東京大学と改称し、3年後、東京大学を卒業した。開成学校に在学中は勉強では誰にもひけを取らなかったが、1メートル58センチの小柄な治五郎は、腕っぷしの強い学生仲間にケンカで負けるのが悔しく、柔術を習おうとして福田八之助道場の門を叩いたのが16歳のとき。その後、柔術修業は一つの流派にとどまらず各流派を学び、新しく柔道の講道館を設立した。
 16歳ごろから東大を卒業する20歳まで、従来の柔術から新しい柔道を生み出すとともに、大学では文学部政治学と理財学(経済学)を卒業。道義学なども学んだというから柔道と学問に打ち込んだ4年間だったのだろう。
 東大を卒業して学習院の講師となり、自らも英語学校・弘文館を設立しているから教えることにも熱心だったし、英語の能力はずば抜けていたことになる。
 日本サッカー史では、嘉納さんより8歳年長の坪井玄道(1852〜1922年)が新設の体操伝習所に勤め、アメリカ人体操教師リーランドの通訳としてスポーツを教えた(中にフートボールもあった)のが1878年だから、ちょうど嘉納治五郎が開成学校で勉強しつつ、柔術に取り組んでいるとき。
 1886年に体操伝習所は東京高師に合併されて体操専修科が設けられ、坪井さんは東京高師の助教授になったが、嘉納さんはそのころ、学習院教授兼教頭となっている。この学習院の教授時代に、ときの学習院の校長と意見が衝突し、学習院を辞める形で、1889年から2年間、嘉納さんは教育事情視察のためにヨーロッパへ出かけることになり、その後しばらくして東京高師の校長となる。
 前述の@にあたる東京高師校長時代のスポーツ奨励は、学習院教授時代と外遊期間によって、その基礎的な考えが培われたのだろうと推察している。


(月刊グラン2014年10月号 No.247)

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