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日清戦争中も学生スポーツを奨励 日本オリンピックの父 嘉納治五郎(中)

海外視察で国際視野を広げる

 嘉納治五郎さん(1860〜1938年)の外遊は、1889年9月5日の横浜出航(当時は飛行機はなく、海外へ行くのは船旅だった)から91年1月16日の帰国までの1年4カ月。目的は海外の教育事情視察のためとなっていた。実際は、教授兼教頭であった学習院で、三浦梧樓院長と教育方法で意見が対立したため、院長側が外遊という形で嘉納さんの追い出しを計ったものとみられている。
 理由はどうあっても、英語が堪能な嘉納さんにとって、このヨーロッパ視察は、見聞を増し、交流を広め、また自ら確立した講道館柔道を外国で紹介するよい機会でもあった。
 このヨーロッパ教育事情視察の旅から帰国した後、嘉納さんは学習院を去り、第五高等中学校(現・熊本大学)の校長となり、1893年には東京の第一高等中学(後の旧制第一高等学校)の校長、さらに転じて東京高等師範学校校長に就任した。
 嘉納さんはこの1893年から1920年まで27年間、東京高等師範の校長をしたということになっている。実際には、97年7月に一度罷免されて11月に再就任し、また98年には文部省の役職に就いたため校長を辞め、1901年に三度目の就任(1920年まで)というように多少の出入りはあったのだが、中学校の先生を教育する高等師範学校の校長として、教育界の大きな力であったことは疑いない。


  高等師範でのスポーツ奨励

   教育者としての嘉納さんの高等師範での大きな仕事の一つに運動会の設立があった。1893年9月に校長になった翌年に、陸上大運動会を開催して全学生や教職員が参加して競走やフットボール(サッカー)、相撲など20数種目が行われた。
 1894年に日清戦争が始まり、95年3月に終結した。そういう時代背景のなかで嘉納さんは高等師範の寄宿舎の軍隊的な組織を廃止し、96年には運動会を組織した。種目は10種目で柔道部、撃剣(剣道)部、ローンテニス部、フットボール部などがあり、生徒は必ずどこかに所属して毎日30分運動することになっていた。この運動会が、後に校友会となり、課外活動を経験する組織となり、スポーツがそれぞれの部として活動することになる。フットボール部が1903年に『アソシエーションフットボール』という指導書を出版し、日本でのサッカーのリーダーとなっていくことはすでに、この連載でもことあるごとに紹介していて、皆さんご存じのとおり。日本が明治維新後に富国強兵策に傾こうとし、日清戦争という大きな戦争を経験しているときに、軍隊式を排して“軍事教育”よりもスポーツを奨励した嘉納さんの方針は、卒業生による活動を通して日本のスポーツ発展に大きな基礎をつくったといってよい。
 1894年6月23日、パリ国際スポーツ会議でピエール・ド・クーベルタンが近代オリンピックの復興を提唱し、その開催のための国際オリンピック委員会(IOC)の設立を訴え、満場一致の賛成を得た。
 古代オリンピック競技の地アテネで、その近代オリンピックの第1回大会が1896年に開催され、ヨーロッパ、アメリカで大きな反響を生んだが、クーベルタンから駐日フランス大使を通じて嘉納治五郎にIOC参加を打診してきたのが1909年だった。
 嘉納さんはこの申し出を受け、1909年のIOC総会(ベルリン)で認められ、次の年には1912年ストックホルム大会への参加が届いた。嘉納さんと日本スポーツにオリンピックへの道が開かれた。1911年7月には嘉納会長の下で大日本体育協会が生まれ、11月には予選会を実施した。


(月刊グラン2014年11月号 No.248)

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