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1940年のオリンピック東京大会開催招致に成功し、 開催返上論を覆し帰途の船上で客死したオリンピックの父 嘉納治五郎(下)

4人の選手団

 1912年(明治45年)7月6日、第5回オリンピック大会の開会式がストックホルムで開催され、日本から初参加の選手団4人も入場行進に参加した。正面に日の丸を持つ三島彌彦選手、その右側、旗の陰に隠れて足だけが見える金栗四三選手と彼の持つNIPPONのプラカード、後方の左端に嘉納治五郎団長、その右に大森兵蔵さん(大日本体育協会総務理事)たちの行進の写真は、日本のオリンピック史の最初のページを飾るものとして、私たち古いスポーツ記者にとって最もなじみのあるものの一つである。
 この初参加のメンバーを決定するために、大日本体育協会(会長・嘉納治五郎)は、この前年の11年11月18、19の両日に東京・羽田運動場で予選会を実施した。参加は91人で、この予選会の結果を参考に、12年2月15日に前述の役員2、選手2人の派遣を決めたのだった。
 三島は東大生で陸上競技の短距離、金栗は東京高等師範の学生でマラソンに参加した。国内では好記録を出し、期待も高かったのだが、初めての国際舞台であり、練習に付き添うコーチもいない2人には、驚くことが多く、ともに実力を発揮できずに終わった。三島は百メートル、二百メートルは予選で敗れ、四百メートルは準決勝で棄権、金栗も16キロで途中棄権した。
 このオリンピック初参加は、日本のオリンピック熱、スポーツ熱に火をつけ、またIOC(国際オリンピック委員会)委員・嘉納さんの人柄と英語力はオリンピック提唱者クーベルタンをはじめとする各国スポーツ要人からも尊敬されることになる。
 若い学生時代に勉強は誰にも負けなかったが小柄で非力であったため、腕っ節の強い仲間から見下されたことから柔術を習うようになり、やがて各流派の統合ともいうべき柔道に至り、講道館を創設した嘉納さんは新たにオリンピックという多種目スポーツの世界交流の場にも臨むことになり、オリンピック・ムーブメントの推進が生涯の仕事の一つとなった。


幻の東京五輪

 ストックホルム大会の後、1913(大正2)年にはマニラで極東大会が開かれ、アジアでのスポーツ国際交流も始まる。14年に始まった第一次世界大戦のためにオリンピックは中断され、20年にアントワープで第7回大会が開かれた。次の24年の第8回パリ大会では日本の織田幹雄(陸上・三段跳び)と高石勝男(競泳・百、千五百メートル)が入賞。4年後の28(昭和3)年の第9回アムステルダム大会では織田が三段跳びで優勝、女子八百メートルで人見絹枝が銀メダルを獲得、競泳では鶴田義行が二百メートル平泳ぎで金メダルを取るなど、日本選手の活躍が目立つようになった。
 嘉納さんは、こうしたオリンピック熱の高まりの中で、40年の東京へのオリンピック招致に力を注いだ。
 31年に東京市会が開催要望を決議したことから、嘉納さんは32年7月のIOC総会(ロサンゼルス)で東京への招致を説明し、正式の招請状を時のIOC会長、ラツールに手渡した。以来、毎年のIOC総会での招致活動を続け、36年、ベルリンでの総会で東京開催が決定した。この決定の後、嘉納さんはこう語っている「私が生んだ日本のオリンピック・ムーブメントは遂に実を結んだ。東京で開くことになった以上、あくまで世界に模範を示さなければならない。これまで欧米だけで開催されオリンピックは真の意義を発揮できなかったが第12回大会は東京で行うことになり、真に世界的なものになると同時に、日本の真の姿を外国に知らせうることになる」
 しかし、この後、37年7月に日本陸軍は中国・北支で中国軍と衝突。“不拡大”を口にしながら戦火は上海に及び、やがて中国全土へと広まった。IOCはこの戦争の状態から東京大会の返上を日本に促した。38年、カイロでの総会に出席した77歳の嘉納さんは、東京開催を主張して各委員の支援を取りつけたが、ヨーロッパ、アメリカを回っての帰路、バンクーバーから横浜に向かう氷川丸の船上で肺炎を起こし、38年5月4日に死亡した。横浜帰着の2日前だった。
 2カ月後の7月15日、日本政府は40年の東京オリンピック開催返上を決定した。


(月刊グラン2014年12月号 No.249)

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