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西邑昌一(上) 戦前の小兵の名手 関学と早大の名インサイド

「にしゆうさん」は憧れ

 香川真司の日本代表でのプレー、あるいはドルトムントでの活躍を見るたびに私はベルリン・オリンピック(1936年)当時の代表の一人、西邑昌一さん(1912〜98年)を思い出す。一つには日本人のなかでも小柄で、ずば抜けたテクニシャンだったこと。もう一つは指導者となってからも技術の大切さを説き、揺らぐことのない信念で関西学院大学をコーチし、当時のトップチームの一つに仕上げたことだった。
 その姓の「邑」を「ゆう」と読み、仲間たちは西邑さんを「にしゆう」と呼んでいた。私たち後輩も「にしゆうさん」と言った。人並み外れて小さい選手だった中学生のころの私には、当時神戸クラブで黒いユニホームの「にしゆうさん」はまぶしい存在だった。
 難しいボールをピタリと止めて、ドリブルしフェイントをかけて、相手を抜く動作は、当時、日本代表が揃っていた神戸クラブでもとてもシャープで華やかに見えた。
 そのステップのまねをしていて、先輩から「にしゆうのようだ」と言われて、とてもうれしかったのを今も覚えている。
 西邑さんがサッカーを本格的に始めたのは、西宮市甲子園の甲陽中学(現・甲陽学院高校)に入ってから。大戦前には甲子園球場のすぐ近くにあり、神戸側から阪神電鉄で甲子園駅に近づくと、そのグラウンドが右手側(浜側)に見えたものだ。プロ野球の名選手、別当薫(大阪タイガース、毎日オリオンズ)を生み、野球で有名だったが、サッカーも兵庫県下の強豪校で、大正期から日本フートボール大会(現・全国高校選手権)に出場していた。御影師範学校(現・神戸大)や神戸一中(現・神戸高校)などがいて、兵庫県の代表として出場することはなかったが、1928(昭和3)年には、神戸一中や御影師範にとっても警戒すべき強敵となっていた。
 その時の甲陽のメンバーの多くが関西学院大学へ進み、関学の黄金期をつくることになる。西邑さんもその一人だった。


   黄金期 関学から東へ

 関西学生リーグ優勝2回を経て、関西でも注目のプレーヤーとなった西邑さんは、関学を卒業すると東の名門、早稲田大学に入学し、ここでまたサッカーを続けた。1935(昭和10)年のことだった。
 このころ早大は、関東大学リーグに2年連続優勝し、東西学生王座決定戦にも勝って実力ナンバーワンを誇っていた。その強力FWに西邑さんが加わる。この年の大学リーグ3連覇のメンバーとなった「にしゆう」は、12月16日の学生王座決定戦で西の代表、関西学院大と戦う。神宮球場での12−2のスコアは当時の早大の攻撃力を示すもの。当時の試合評で山田午郎さんは「(関学出身の)西邑の起用には迷いもあったかもしれないが、その起用は成功した。西邑がチャンスをつくり、ゴールを決めた」と記している。
 そのころ、日本のサッカー界には大正末から昭和初期にかけて関東大学リーグで6連勝を記録した東京帝大(現・東大)に代わって慶應と早大が優勝を争い、早大が優位に立っていた。東大によって成果を上げたショートパス、慶應はドイツの指導書『フスバル』をテキストとして戦術をさらに進め、早大はパス戦術に個人力の向上と強化、激しい当たりを加えていた。関西では関学のロングパスと速攻が関東に対抗できるものと見られていたが、西邑さんはその関学の流儀の上に早大流を身につけようと選んだのだった。
 後に私がインタビューしたとき、西邑さんは「サッカーは個人技術を高めることが第一、その技術を発揮したいと考えた」と早大行きを語った。すでに早大のストライカーであり、関東大学リーグの得点王なっていた川本泰三は西邑さんをこう評していた。「当時のインサイドFW(攻撃的MF)として技術が正確で、きちんとしたボールを回してくれた」と。


(月刊グラン2015年1月号 No.250)

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