賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >李昌碩を軸に関学をレベルアップ つなぐサッカーで天皇杯を獲得 低迷期の日本に輝いた 西邑昌一(中)

李昌碩を軸に関学をレベルアップ つなぐサッカーで天皇杯を獲得 低迷期の日本に輝いた 西邑昌一(中)

 西邑昌一さん(1912〜98年)は、今から80年前の1934(昭和9)年、第10回極東大会(マニラ)と、その2年後のベルリン・オリンピックの日本代表だった。ベルリンでは本番の出場はなかったが、マニラでは対オランダ領東インド(現・インドネシア)、対フィリピンの2試合に出場して2ゴールを記録していて、「にしゆう」さんのニックネームで私たち後輩から尊敬され、親しまれたインサイドFW(今の攻撃的MF)だった。
 特長は小兵でボールテクニックが高く、日本サッカー史のなかでも「ボールを止めることに苦労しない」資質の持ち主だった。
 その「にしゆう」の名が再び輝くのは大戦後、大学サッカーの監督となってからである。


“徹底的に基本を”と宣言

 母校関西学院大学の監督に西邑さんが就任したのは、1956(昭和31)年――すでに関学は戦前の歴史に加えて長沼健(第8代JFA会長)、平木隆三(第1回日本サッカー殿堂入り)といった優れた選手たちによって、関東に対抗できる強いチームとなっていたが、戦中、戦後の空白期の影響で技術レベルは必ずしも高くはなかった。戦前派で自らボール技術に自負を持つ西邑さんは、大学生の指導に当たる前に「徹底的に基本から鍛え直す」と明言した。60年にデットマール・クラマーが来日し、「サッカーはボール扱いがすべてのカギ」と日本代表にもボールテクニックの基礎から指導し始める4年前のことだった。


クラマーへつながる道

   現在の日本サッカーは技術レベルではアジアで最も高いとされているが、1950年代は、ことボールを扱う技術に関してはアジアでも見劣りしていた。もともとサッカーには同じフットボール系のラグビーと同様に格闘競技的な要素があり、また、母国イングランドをはじめ、欧州では“激しさ”“男らしさ”を好むところも少なくない。
 日本でもボール扱いに時間をかけて習熟するよりも体を鍛え、足を速くする方がチーム強化の近道という指導者も少なくなかった。
 クラマーが「ボール扱い」を強調し続けたのは当然のことながら、日本では疑問視する声もあった。
 西邑監督にとって「基礎重視」は楽な道ではなかったが、チームに1年生ながらボール扱いの才能優れる李昌碩がいたことが大きなプラスになった。
 李選手は兵庫県の県立芦屋高校時代に、全国高校選手権(当時は西宮で開催)に出場して、見事な個人技と攻撃展開で準々決勝まで進んで、大会の優秀選手に選ばれたこともあった。そのボールタッチの巧さ、柔らかさとドリブルで相手をかわせ、パスの技術も高かった。西邑さんから「李がいるので助かる。彼に僕の考えを理解させればいいんだから……」と私は聞いたことがある。李選手は関学を卒業した後、東京の朝鮮大学のコーチとなり、朝鮮高校、大学のレベルアップと日本での在日朝鮮人選抜チーム、在日朝鮮蹴球団(現・FCコリア)の強化の中心となったことはよく知られている。
 西邑さんの指導で関学の学生たちはレベルアップし、関西学生リーグで連続優勝。大学王座決定では2年続けて関東勢に敗れたが、彼ら学生を中心にOBを加えた「関学クラブ」は58、59年の天皇杯を連続で獲得した。58年の決勝の相手は八幡製鉄(現・新日鐵住金)、59年は中央大学だった。
 この59年の決勝の5月6日、第1回アジアユース大会(マレーシア)に出場し、3位となった日本高校選抜チームとともに私は帰国した。羽田空港から小石川サッカー場へ駆けつけて観戦――李選手を中心とするパスをつなぐ関学クラブの勝利を見た。  アジアユースで杉山隆一、宮本輝紀(ともに68年メキシコ・オリンピック銅メダル)たち新しい素材を発見した私は、天皇杯決勝での技術重視の関学クラブの優勝に、日本サッカーが低迷から脱出できるかも――と、将来の明かりを見る思いがした。


(月刊グラン2015年2月号 No.251)

↑ このページの先頭に戻る