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FIFA会長賞異聞 多くの取材、質問で知らされた 自分の現場のありがたさ、先輩や仲間の威力

二つの祝賀会とフィギュア仲間

 今回も私ごとで恐縮だが――またまたFIFA会長賞の続きです。前号で申し上げたとおり、1月12日、チューリヒでのFIFAバロンドールの表彰式で私、Hiroshi KAGAWAがFIFA会長賞を受賞した。そして、帰国(15日)後にメディアの多くから取材が殺到し、2月いっぱいでようやく一段落――と思ったら、祝賀会の話が持ち上がって、23日(神戸)、25日(東京)と両日それぞれ神戸ポートピアホテル、東京・新橋の第一ホテルで開催された。
 神戸での会は発起人代表として平松純子さん(国際スケート連盟理事)のあいさつの後、久元喜造神戸市長からの神戸市スポーツ特別賞贈呈、釜本邦茂さんの乾杯ということでスタート。締めくくりは鬼武健二さん(元Jリーグチェアマン)から私への花束だった。
 東京会場には発起人代表のセルジオ越後さんがあいさつし、JFAの小倉純二名誉会長がFIFA理事であった立場から会長賞について話し、岡田武史さん(元日本代表監督)が乾杯して宴を始め、締めくくりはフィギュアスケートの佐藤信夫コーチ夫人の久美子さん(旧姓・大川、女子世界選手権5位)からの花束だった。
 両方の会に元スケート選手が登壇したのは、記者として2人の女性選手との長いつきあいがあったからだった。東京の控え室で杉山隆一さん(メキシコ五輪銅メダリスト)が「私が賀川さんに初めて会ったのは、17歳の時だった」、佐藤久美子さんが「私は小学5年生」と言うのを聞きながら、あらためて2人だけでなく、ワールドクラスのスポーツ選手たちと長くつきあってきた自分の記者人生の幸いを思った。
 月刊グランの元編集長・野嶋庸平さんや、グランの執筆者・大住良之さん(フリーランスの記者)、財徳健治さん(元東京新聞記者)をはじめ、スポーツ記者の仲間の出席も多く、ありがたいことだったが、私より一歳年長で、1952年に産経新聞運動部に入社して以来の親友であり終生の目標、北川貞二郎さんの出席はなによりだった。卓越した記事の書き手であり、サンケイスポーツの社長も務めた先輩は、ノドを痛めて声の出にくい状態なのに――とただ、ただ嬉しく感謝のほかはなかった。


サッカージャーナリスト草分けの先輩

 二つの祝賀会のあいさつで私が申し上げたのは、90歳の私が決してサッカージャーナリストの“草分け”ではないこと。私より以前に優れたサッカー記者は何人もいて、日本サッカーの草創のころに活躍されたのだということだった。
 最も古い代表格の一人が山田午郎さんで、1894年から1958年までの生涯のほとんどをサッカーに捧げられた。山田さんだけでなく、素晴らしい先輩たちによってサッカージャーナリズムが、随分古くから開かれていた。私が旧制中学の頃には、毎日新聞の斎藤才三さん(1930年極東大会代表GK)や朝日新聞の天藤明さんが懐かしい。
 天藤さんの後に朝日には大谷四郎さん(第6回日本サッカー殿堂入り、1918〜90年)がいた。


スポーツ記者の巨星・木村象雷

 こうしたサッカー記者の先輩だけでなく、記者稼業のスタートにあたって産経新聞運動部長の故・木村象雷さんに師事したのは、後に出会ったデッドマール・クラマーに匹敵する人生の大事件だった。
 常に新しいスタイル、目のつけ方を考えろと木村さんに言われてきた弟子の北川貞二郎さんは相撲の「熱戦一番」を生み、私はワールドカップを紀行文的に書く「ワールドカップの旅」に活路を見つけた。
 ゾウさん(象の字から)と呼ばれた木村さんの「賀川クン、フットボールとは何かを追求しなさい」との言葉は、今も私の目を試合の場へと向かわせている。
 多くの取材で質問を受け、これまでの自分を振り返ることになって、あらためて先輩たち、古くからの仲間たちの影響力を思い出したのも90歳の喜びだった。


(月刊グラン2015年4月号 No.253)

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