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岡野良定(上) 三菱重工サッカー部を強化、発展させ 今の浦和レッズへ導いた 広島一中OB

旧広島一中の先輩たち

 3月上旬に神戸で兵庫・神戸高校対広島・国泰寺高校の第一回定期戦が行われた。ともに1930〜40年代に神戸一中、広島一中の名で旧制中学校時代には全国優勝を争い、多くの優秀選手を送り出した。ともに創部100年の歴史を持つ名門である。試合後のレセプションに出席した私は、伝統を大切に思う国泰寺高(広島一中)OBたちと話し合いながら、あらためてこの高校の生み出した人材を思い起こしたのだった。
 広島一中の1919(大正8)年卒業の先輩に野津謙さん(1899〜1983)の名がある。JFA(日本サッカー協会)第4代会長で広島一中がまだ広島中学と名乗っていた頃に在学した大先輩。ことし90歳の私から見ても35歳年長、デットマール・クラマーというドイツ人コーチを招いたことでも知られ、文字通り日本サッカーの興隆の先頭を歩いた大先達の一人である。
 広島では1919年に瀬戸内海の似島にいた第一次大戦のドイツ軍捕虜とサッカー交流が始まり、この地域を当時のサッカー先進地とした。広島の旧制中学校(広島一中、広島高等師範附属中学、修道中学、広島師範)や広島高師の実力アップ、そして戦後の高校サッカーでの広島勢の活躍、さらには東洋工業、サンフレッチェ広島といった実業団時代から今のJリーグでの広島チームの強さは100年前のドイツ人との交流が起点といえるだろう。


神戸造船所のチームづくり

 そうした交流の中で私はトップチームをつくった広島一中の多くの先輩を懐かしく偲ぶのだが、私が若い記者だったころ、神戸の三菱造船所でチームの中心となり、後に三菱重工を強チームに育て、今の浦和レッズの基礎をつくった岡野良定さん(1916〜2008)は、とりわけ印象が強い。
 岡野さんは広島一中の1934(昭和9)年の卒業生。当時の一中はすでに大阪毎日新聞社主催の全国中等学校蹴球選手権(現・全国高校サッカー選手権)には広島代表として出場する常連ではあったが、岡野さんが5年生(最上級生)のときには全国大会2回戦で敗れている。3年後の全国初優勝に比べると、一中での成績はやや地味ではあったが、岡野さんは旧制広島高等学校に進学し、ここでインターハイで優勝。京都大学でも関西学生リーグで、京大の黄金期をつくった。
 1941年4月、京大を卒業した岡野さんは神戸の三菱工作機械に入社。45年に三菱重工業に移る。神戸の三菱重工神戸造船所には岡野さんの入社以前にもサッカークラブがあったが、本格的にスタートしたのは51年から。52年に産経新聞大阪本社運動部に入社した私の初仕事というべきサッカーの仕事の一つが大阪と神戸の実業団チーム。5チームずつが戦う阪神実業団対抗戦。このとき神戸側の中軸チームが三菱重工神戸造船所(当時は中日本重工業)で、岡野さんはその中心だった。大阪側には当時の日本最強チーム、田辺製薬もいて大阪側が勝つのだが、私にはこの催しの紹介記事を書いていて、岡野さんたちに面白いと褒めてもらったのが忘れられない記憶として残っている。


日本サッカーリーグの中で

 東京オリンピックを迎えてのJFAの強化策の一つに、東京にできるだけ選手を集めたこともあり、三菱重工サッカー部も神戸から東京に移り、岡野さんは勤労部の課長となり、東京でサッカー部の面倒をみることにもなる。
 1964(昭和39)年の“東京”の後、プロ野球以外で初めて日本のスポーツ界に生まれた全国リーグ「日本サッカーリーグ」はクラマーの提唱の一つであったが、東京で古河電工、日立製作所、三菱重工や名古屋での豊田自動織機などがいち早く賛同したことが、トップリーグへのスタートを早めたと言える。ことし2015(平成27)年は、その50周年を迎えるのだが、企業チームの全国リーグスタートによって3年後のメキシコオリンピック銅メダルへの道も開け、また、後年のJリーグ開幕への土台となった。
 岡野さんは1966年、日本代表の杉山隆一(明大)、GK横山謙三(立教)たちを入社させ、チームの人気を高め、リーグを盛り上げた。


(月刊グラン2015年5月号 No.254)

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