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Jリーグ・トップクラブでの ルーツに広島一中 岡野良定(下)

JSLの50周年

 ことし6月6日は日本サッカーリーグ(JSL)創設50周年記念日にあたる。
 JSLがスタートした1965年ごろには、全国的なリーグ戦形式のスポーツといえばプロ野球のセ・リーグ、パ・リーグだけだった。甲子園の春、夏の高校野球に見られるようなノックアウトシステムの勝ち上がり制が主で、一つ負ければ次のラウンドへは進めない形になっていた。21年に始まったサッカーの全日本選手権も第1回大会以来、ノックアウト制を踏襲し、天皇杯全日本サッカー選手権と名称を変えて規模が大きくなっても、ノックアウトシステムには変わりなかった。
 64年の東京オリンピックの日本代表強化のために招かれて来日し、指導したデットマール・クラーマー・コーチが64年秋、東京大会が終わって日本を去るにあたっての五つの提言の中に、トップチームによる全国リーグの実施がサッカーレベル向上と普及の促進に大切なことを説き、彼の直弟子ともいえる長沼健(第8代JFA会長)、岡野俊一郎(第9代JFA会長)たち、当時の代表チーム監督・コーチを中心とする若手グループの推進力によって実現した。
 65年1月に、東京の古河電工、日立製作所本社、三菱重工業、東海の豊田自動織機、名古屋相互銀行、関西のヤンマーディーゼル、中国地方の東洋工業、九州の八幡製鉄の参加8チームの名が発表され、ホーム・アンド・アウェーで各チーム年間14試合のリーグの仕組みが明らかになった。この8チームがやがて10チーム(73年)、12チーム(85年)となり、二部を設け、91−92年シーズンを最後にプロフェッショナルのJリーグに移すことになる。


初期を彩った三菱と東洋工業

 今、振り返っても50年前のこのJSLのスタートは誠に新鮮な驚きだった。
 前号紹介した岡野良定さん(1916〜2008年)は、このときの三菱重工のサッカー部監督で、同社の勤労部にいてチームにかかわり、Jリーグ発足時には、すでに三菱自動車の取締役会長を経て相談役となっていたが、92年の三菱自動車フットボールクラブ(浦和レッズ)発足の際には会長となった。
 岡野さんは66年のJSL2年目以降から東京オリンピックのスターであったFW杉山隆一、GK横山謙三やMF森孝慈らを加えてチームとリーグに華やかさを増した。
 岡野さんは私より8歳上で広島一中の卒業が34年だから、神戸一中では有名な二宮洋一さん(第2回日本サッカー殿堂入り)より1年上にあたる。広島一中時代も広島高等学校時代も優れたFWとして活躍し、広島では旧制インターハイで優勝した実績を持っていた。サッカーを見る目は厳しく、三菱重工でも選手のプレーの採点は辛口だったらしいが、やはり自分で旧制中学、高校の時期に練習に打ち込んだことが背景にあったはずである。三菱重工は岡野さんがかかわっていた27年間にリーグ優勝4回、天皇杯優勝4回、JSLカップ優勝2回の実績を持っているが、そのJSLの初期に三菱以上の優勝5回の実績を残したのが東洋工業(現・サンフレッチェ広島)。岡野さんの後輩である広島一中OBの小畑実さん(37年、広島一中卒業)が創設にかかわったチームである。
 小畑さんは伝統あるこの旧制中学が初の全国優勝したときのFWで、後に慶応の黄金期に篠崎三郎、播磨幸太郎、二宮洋一たちとともに強力攻撃陣をつくった。
 大戦後間もないころ、原爆で焼け野原となった広島でサッカーの興隆を図ることがどれほどの難事であったか――小畑さんは広島のレベルアップを図るために優秀選手を集めるとともに、東京、関西の強チームを招いての試合を毎年行い、自らも40日間のヨーロッパ留学で新しいサッカーに触れた。
 65年のJSL開催とともに東洋工業の強さが発揮され、優勝を重ねることになったのは会社と広島をあげてのバックアップと小畑さんを中心とする選手の進歩だった。
 現在のJリーグで名古屋グランパスなどと日本のトップを目指す争いで、浦和レッズやサンフレッチェ広島が鋭く対立しているのを見ながら、50年の歩みの中で広島一中の先達の努力をあらためて思い起こした。


(月刊グラン2015年6月号 No.255)

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