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世紀のオリンピックの著者 スポーツ記者の巨星 木村象雷(上)

賀川文庫のおすすめ本

 木村象雷(1908〜86年)さんは、1930年代から60年代にかけてのスポーツ記者、編集者として有名で、スポーツジャーナリストの巨星だった。水泳のオリンピック選手でもあり、オリンピック特派員でもあり、私の師匠でもあり、日本では不遇であった1950年代のサッカー興隆をバックアップした一人だった。
 神戸市中央区楠町の神戸市立中央図書館の2階に、昨年4月から“神戸賀川サッカー文庫”が設けられ、私・賀川がこれまで仕事に使った図書資料が閲覧できる仕組みになっている。その5500冊の中には英国のサッカー専門月刊誌『ワールドサッカー』が1969年から40余年分、内外の雑誌や年鑑、各学校の部史なども展示されているが、もし、その中でオリンピックのことを知りたい――と問われれば、ためらうことなく『世紀のオリンピック〜アテネから東京へ』(木村象雷著、昭和38年8月5日初版、山海堂、定価280円)を推薦することにしている。
 1963年、今から50余年前の出版だが、オリンピックの歴史を肩のこらない読み物風に見事にまとめている。292ページの随所に木村さんが自らアムステルダム大会の水泳選手だった経験、ベルリン(1936年)、ヘルシンキ(52年)、メルボルン(56年)、ローマ(60年)の夏季オリンピックを記者として取材した知識が見事に整理され、料理されて読者の皿の上に乗せてくれる。
 序文はオリンピック東京大会組織委員会の与謝野秀事務総長で、「著者木村象雷君は、自ら選手としてオリンピック大会に参加したのみでなく、その後の各地の大会に、報道陣の重要な一員として活躍した貴重な体験を持っているひとである。体験を織り込んだ過去の大会の解説は、要領よく整理されてまことに興味深い。数々のエピソードも読者を楽しませてくれるし、東京大会に対する期待にも教えられるところが多い。この書は記録のみを並べる無味乾燥さと、過去の追憶に偏する、自己満足のにおいのない、快い読み物であり、一気呵成に読了した私は、あらためて著者に敬意を表し、大方の一読をお勧めする」(『世紀のオリンピック』より)とある。
 この『世紀のオリンピック』が出版されたのは木村さんがサンケイスポーツ(大阪)編集長を定年退職した後、今でいうフリーランスで東京オリンピックを迎える前年だった。
 選手時代を含めて5度のオリンピック経験者というのは当時の日本では稀有の存在。“東京”の前のスポーツ記者のためのオリンピック講習会でも木村さんは、オリンピック取材現場で最も経験のある先輩として若い記者たちの憧れだった。
 木村さんは1908(明治41)年2月7日生まれで、出所は岡山県の美作、京都の同志社中学(旧制)を経て早稲田大学に入った。水泳は京都時代に疎水を道場とする水練学校で身につけたとか。早稲田では背泳ぎの選手となり、1928年のオリンピック・アムステルダム大会に参加した。この大会で日本は陸上三段跳びで織田幹雄、競泳の200メートル平泳ぎで鶴田義行が優勝した。木村選手は自ら「末席を汚した」と記述している。


東京を機にサッカー普及を期待

 その『世紀のオリンピック』の中で競技種目の紹介のサッカーのところで「世界最大のスポーツはなにか、ということのなると、サッカー・フットボールといっていい」との書き出しで、東京オリンピックでも「なるべく多くのファンが世界的な好ゲームを見て、これからのファンになってゆくことが望ましいが……」と結んでいる。実際に多くの人がサッカーを見て、ここから日本でのこの競技の興隆が始まったのだが……。
 私が1951年暮れに産経新聞社に入社したときに、木村さんが運動部長であったのは私の人生の最大の幸運の一つと思っている。古い記者仲間から象雷の象をゾウと読み「ゾウさん」のニックネームで呼ばれていた部長は不惑を過ぎた働き盛り、「ボールゲームを書ける」ということで私を採用してくれたようだ。
 書くことが好きでスポーツが好きな私には、まことに有難い職場だったし、そこに世界のスポーツ事情に通じ、サッカーが世界で最も盛んな競技であることを知っている木村部長がいたことは、私にもサッカーにもプラスだった。


(月刊グラン2015年7月号 No.256)

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