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後輩の育成に力を注いだ 英語に堪能なオリンピック記者 木村象雷(中)

『クォ・ヴァディス』を英文で

 1952(昭和27)年、私が産経新聞社に入ってスポーツ記者の一歩をスタートしたころ、朝日新聞社の東京の運動部長は織田幹雄さんで、大阪毎日新聞社の運動部長は南部忠平さん(いずれも故人)だった。織田さんはアムステルダム(1928年)、南部さんはロサンゼルス(1932年)のそれぞれのオリンピック大会での陸上競技三段跳びのゴールドメダリストだった。2人の大先輩のように新聞社のスポーツ記者にはオリンピックや大学野球などで活躍した有名選手がいた。木村象雷さんもメダリストではなかったがオリンピアンであり、1928年のアムステルダム・オリンピック競泳の背泳ぎに出場した。早稲田大学在学中で当時20歳だった象雷さんは、京都の同志社中学校の時から水泳に打ち込み、東山の疎水の水練場で日本の古式泳法なども修得したから“泳ぐ”ことに関しては若いころから一家言あったという。
 若いころから本を読むことが好きだった。父方の親族に作家の木村毅さんがいた。早大英文学部を卒業してロンドンに留学し、大学教授となり明治文化研究会会長を務めたこの叔父さんは、作家としても『西郷南洲』や『兎と妓生と』などの作品も残っているが、象雷さんもこの人の刺激を受けたのか英語の勉強に熱心。私も本人から『クォ・ヴァディス(いずこへ)』を英文で読んだと聞かされ驚いたことがある。キリスト教の歴史を題材にしたこの作品は日本語訳でも読み通すことが大変だった私からみれば“英文で全読”には脱帽だったことを覚えている。
 早大を卒業してスポーツ記者となってからはオリンピックやアメリカ大リーグを、得意の英語でその歴史からひもといたから若いうちにデスクから一目置かれる存在となり、それだけに文章論や記事の書き方や内容についても、先輩記者と衝突することもあったらしい。


資料あさりは仕事の原点

 象雷さんが産経新聞大阪本社の運動部長となってからも上司から一目置かれることは変わらなかったが、スポーツ記者の育成にも力を入れてくれた。「新聞は中学校2年生の子どもが読んでも理解できるように易しい用語を使い、読みやすい文体にしなさい」といった文章の書き方や「××は―ですか」「××が―ですか」のような助詞の使い方も自問自答して決めなさいなど、一字一句をおろそかにしないように注意してくれた。
 「キミの仲間では北川貞二郎クンは文章がうまい。山田宏デスクは原稿に手を入れるのがうまい」など見習うべき先輩を例にとって、自らの記事を工夫することを勧めた。若い記者たちの間には、時に「型にはめようとするのですか」と不満を漏らす者もいた。私はその都度「型をマスターし、型にはめて、型を出るように木村部長は言っているはず」と答えることにしていた。私自身そうなるには時間もかかったものだが。
 プロ野球のリーグのないオフの紙面は企画が大切と、若い記者に次々に企画を考えさせたのも記者教育の一つだった。今、考えても感心するのは、私にプロ野球のオフの間、題字横の小さな広告がなくなる“目立スペース”に「きょうの歴史」を書くようにと言ったこと。
 100字ほどの小さなスペースだが、人の目につく場所だからと、半年間はその記事を書くための古今東西のスポーツ史を調べて書き続けたものだ。資料の乏しい60年前、連合国軍総司令部が設置したCIE図書館に日参し、フーズ・フー(紳士録)や年鑑を調べながら、木村象雷という先人の「後輩を勉強させる巧みさ」を感じたものだ。半年間、毎日続けた資料あさりは、今も私の仕事の原点でもある。
 そのころ、西梅田に会社の新しいビルが建って、広い編集局に運動部と文化部のデスクが隣り合わせに並んだ。私の運動部デスクから十数メートルのところの文化部のデスクに福田定一さん、後の司馬遼太郎さんがいた。まだ有名になる少し前だったが、大阪新聞という夕刊紙に『風神雷神』というコラムを書いていた。格調あるコラムは輝いていたが、後の大作家と張り合う優れたデスクもいて、編集局は活気に満ちていた。


(月刊グラン2015年8月号 No.257)

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