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サンケイスポーツ新聞を創刊 『熱戦一番』『山ある記』を生んだ編集長 木村象雷(下)

スポーツ紙記者教育

 私の恩師である木村象雷さん(1908―86年)は、前2回の連載で紹介したとおり、オリンピック選手(競泳)であり、オリンピック特派員4回の経験を持つオリンピック記者の第一人者だったが、1955(昭和30)年のサンケイスポーツの創刊者であったこともスポーツジャーナリズムの中での大きな記録の一つとして残っている。
 すでにデイリースポーツ、日刊スポーツ、スポーツニッポン、スポーツ報知、中日スポーツといったスポーツ紙が先行し、それぞれ地歩を確立していた時期に最後発のスポーツ紙を発行するのは決して楽な仕事ではなかった。しかし、当時の社主であった前田久吉さん(故人、東京タワー建設者)の意向を受けて、木村さんが実質上の責任者として大阪での創刊にあたった。
 初めは大阪だけだったが、東京オリンピック(1964年)の前年に東京でも発行するようになり、現在でも東と西での人気の高いスポーツ紙となっている。スポーツ新聞という特殊な新聞界の競争は私自身も1975年から84年まで10年間、編集局長(大阪サンケイスポーツ)であっただけに、その仕事の面白さや苦難はよく覚えているが、やはり創刊当時に木村さんが打ち出した「公平な記事」という基本的な考えが現在の基礎となっている。スポーツ紙の製作にあたって木村編集長が私たち記者に話したのは、取材記者は産経新聞の運動部員がスポーツ紙も書くことにする、二本の原稿を書くことで記者たちは一つの試合を違った書き方、違った見方でとらえることができるようになるだろう――と言っていた。スポーツ紙のページ数が多くなるにつれて「一人二役」は通じなくなり、現在はそれぞれ専門記者がいるが、初期のこの一人二役は、当時の記者たちには、とてもいい訓練になったと今でも思っている。
 大阪でのサンケイスポーツ発刊の少し前、産経新聞のスポーツ面に大相撲の『熱戦一番』がスタートして大評判になった。大阪で本場所が始まったとき「従来と違った相撲記事を書くように」との木村さんの要望に、大相撲担当の北川貞二郎記者がこたえて考え出したもの。それまでの大相撲の記事は「手さばき」と称する取り組み(試合)の経過のいくつかと、親方衆(専門家)の批評がそれぞれ掲載されていたのを、その日の一番勝負を取り上げ、一つのストーリーに仕上げたものだった。この新スタイルの相撲記事『熱戦一番』は栃錦、若乃花時代から大鵬に至る大相撲の人気上昇とともに産経新聞の評価を高めることになった。今も古い読者のなかに『熱戦一番』を懐かしむ声は多い。


フレーザーにも苦言

   私自身の書きもの、スポーツ記事についても、木村象雷さんからいいアドバイスをもらったが、忘れられないのは、スポーツ紙としては異色の山の紀行を始めようとしたとき、面白がってタイトルを自ら考え『山ある記』とつけてくれた。ある有名な登山家の言葉「何故、山に登るのかだって? そこに山があるからさ」の「山がある」と「歩(あるく、あるき)」とを引っかけての『山ある記』だった。
 連載の回数は少なかったが『山ある記』は私にとって自信となり、後にサッカーマガジンに紀行形式の『ワールドカップの旅』を書く伏線となったものだ。
 現場の記者の発想をうながし、ともにタイトルを考える木村さんによって育てられた記者の中から、後に東京で北川貞二郎、大阪で賀川浩がそれぞれ編集局長となり、当時のスポーツ新聞界での大勢力となった。
 記者として後輩を育て、編集者としてスポーツ紙を立ち上げて成功した木村さんは、1964年の東京オリンピックを最後に記者稼業を去ったが、その何年か後にお目にかかった。話が“東京”での女子競泳第一人者のドーン・フレーザー(オーストラリア)に及んだとき、木村さんはこう言った。「各種目に金メダルをとった彼女は、残念なことにクイックターンをしなかった。もしこのターンをしておれば世界新記録を出したハズなのに――これはアメリカ競泳界大コーチのキツバスの苦言だがね……」。
 大選手フレーザー賞賛の記事ばかり読まされた私は、あらためてこの先輩にはかなわないと思ったのだ。


(月刊グラン2015年9月号 No.258)

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