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広島で原爆を経験 戦後サッカー復興をリードしたGK 下村幸男(上)

 JFA(日本サッカー協会)は8月7日、第12回日本サッカー殿堂掲額者を発表した。松丸貞一(故人)、下村幸男(1932年生)、二宮寛(1937年生)、鬼武健二(1939年生)の4人で9月10日、東京都文京区のJFAハウスで掲額式が行われる。
 日本サッカーの発展に功績のあった人たちを表彰する“殿堂”は2005年に始まり、昨年まで11人のJFA会長経験者を含む68人が表彰され、JFAハウスの地下にその銅板の彫像が掲額されている。
 この雑誌の『このくにとサッカー』の連載で、私が日本サッカーの今の発展に影響を及ぼした先人たちを私見で紹介することにしたのが2000年4月号から。
 その先達たちと“殿堂入り”の顔ぶれは重なることも多い。今回の松丸貞一さんは2007年12月号、2008年1月号の上・下にわたって掲載させてもらった。戦前のスポーツ興隆の中で早慶戦の力の大きかったことは、私のような関西人にとって想像以上のものだが、その慶應ソッカー部の大功労者であり、戦前の慶應の黄金期を築いた監督であった松丸さんの掲額は、この人の功績を知る者にとってもうれしいことだろう。
 今回の他の3人の掲額者についてはまだ取り上げていない。二宮寛さん、鬼武健二さんはそれぞれ慶應、早稲田の出身で、二宮さんは三菱重工、鬼武さんはヤンマーディーゼルと、東京オリンピック後のサッカー界をリードした企業チームの東と西の強豪の監督を務めたことでも知られている。下村幸男さんはこの2人よりは年長で、“東京”前から広島のサッカー中心企業となった東洋工業(後のマツダ)のゴールキーパーであり、“東京”の翌年にスタートした日本サッカーリーグ(JSL)で東洋工業が5年連続優勝したときの監督だった。後に関東で藤和不動産(後のフジタ工業)という企業チームを立ち上げ、また日本代表のGKを務め、監督としても働いた。“東京”以降のリーダーの一人でもあった。
 この号は、その下村幸男さんについて――。
 下村幸男さんは1932年1月25日、広島生まれ――といえば、終戦70周年の今、誰もが1945年8月6日の原爆の時はどうだったのだろうか――と想像する。この人より1歳上の岡野俊一郎さん(第9代JFA会長)は中学生のときに東京大空襲に遭い、2歳上の長沼健さん(第8代JFA会長)が広島でピカドン(原爆のこと)に出遭ったが、夜間の防空監視の勤務が終わり、峠を越えて市の背後の疎開先自宅へ戻っていて、比較的軽い被爆だった。下村さんは旧制修道中学2年生のその日、勤労動員で市内の建物の取り壊し作業にクラスメートとともに参加した。風邪をひいていたのを無理に参加したので、先生の指示で炎天下での作業をしないで大きな壁の陰の涼しい場所にクラスメートの弁当を置き、その見張り番役となっていた。そのとき原爆が投下され作業中のクラスメートの多くは亡くなったが、下村さんは壁のおかげで直接爆風にさらされることはなかった。
 後に70歳になったころに後遺症が表れることもあったが、まことに九死一生としか言いようのない一瞬だった。
 小学校は広島市立本川国民学校(爆心地に最も近い学校として有名)。ここから旧制修道中学に入りサッカーを始める。ポジションはGK。広島は古くからサッカーが盛んで、広島一中や高等師範付属中学は、名選手を輩出していた。修道中学の合言葉は「一中、付属に勝つ」ことだった。


(月刊グラン2015年10月号 No.259)

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