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「日本の銅メダルは生涯の誇り」とした 天才サッカー指導者 デットマル・クラーマー

果たせなかった2人の90歳トーク

 デットマル・クラーマーさんが9月17日に亡くなった。今年になって容態悪化が伝えられたのが、しばらく調子を戻し、4月4日には90歳の誕生日を迎えた。ドイツサッカー協会のサイトにもそのリポートがあったが、病状はその後も回復に向かうことはなかったという。
 今年1月12日に私はFIFAの2014年度会長賞を受けるためFIFA本部のあるチューリヒに出かけたが、その授賞式の翌日にドイツとオーストリア国境に近いクラーマーさんの自宅を訪ねた。このときすでに相当悪い状態と聞いていた。彼の家に入ると、応接室のソファに座っていた。顔を合わせ、いつもどおり「トゥルーフレンドが来た」と言った後、彼が私に「帰るときにこのアルバムを持って帰ってくれ。僕はそう長くないからネ」と言った。「私は、きょうはチューリヒまで来たので久しぶりに会いに来ただけだよ。長くないって、とんでもない。4月4日の誕生日を迎えればキミも90歳だろう」
 「カガワはいくつになった?」
 「昨年12月の誕生日で90歳になった。せっかく2人で90歳を迎えるのだから、4月4日の後、2人の90歳ということで、日本でトークショーをしたいと思っている」
 「うーむ、それはいいネ。“2人の90歳”か」
 弱々しくなったクラーマーさんを長く見るのは、忍びない気持ちだった。最初に抱き合ったときの彼のやせ方、軽い感じは、元気いっぱいの彼を知る者には、たまらないほど寂しかった。
 その後、彼は4月の誕生日を迎え、さらに9月まで頑張った。
 “ツヴァイ(2)人のノインツィヒ(90)歳”の「トーク」をしようとの約束は、ついに果たせなかった。
 幸いなことに月刊グラン誌上で2000年4月号からスタートした『このくにとサッカー』の連載の中、2001年3月号から6月号の4回にわたってクラーマーさんと彼の業績を掲載した。そして、彼の直弟子であり、日本サッカーの興隆に力のあった長沼健(故人、第8代JFA会長)、岡野俊一郎(第9代会長)たちの連載(長沼=03年9〜12月号、岡野=04年2〜5月号)に際してもクラーマーさんのことを記している。この連載を含めてクラーマーさんについての記述は、私のサイト「賀川サッカーライブラリー」にも納められているから、ご一読いただくことをお願いしたい。


東京、メキシコ五輪での功績

   ドイツでもクラーマーさんは偉大なサッカー指導者として評価は高いが、私から見れば1960年にクラーマーさんが来日し、それから東京オリンピックまでの4年間に代表を強化して、本番の大会でグループリーグでアルゼンチン代表を破る大金星を挙げただけでなく、日本サッカーの仕組みを基礎から改革してゆくという大きな構想を伝え、“東京”以降の大発展につなげたのだった。
 日本代表が68年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得したときも、彼はFIFA技術委員の肩書きで大会を訪れ、同時に日本代表に適切なアドバイスを伝えた。彼の機知あふれるジョークは、準決勝で強豪ハンガリーに0−5で大敗した後でも選手たちに元気を取り戻させ、次の3位決定戦(対メキシコ)へ向かわせ、グループリーグの対ブラジル戦での渡辺正の交代起用のアドバイスは0−1から1−1への引き分けをもたらした。
 チームを指導し、戦略を練る優れた監督、コーチであっただけでなく、個人指導の名人でもあった。私はその事例を日本でも見たが、ヨーロッパではバイエルン・ミュンヘンの80年代の大スター、カール・ハインツ・ルンメニゲ(現・バイエルン・ミュンヘン・チェアマン)が若いころに、クラーマーさんが3年間、毎日コーチし、欧州一のFWに仕上げた話は有名。クラーマーを悼むルンメニゲの言葉にも「クラーマーさんとの3年間は私には格別なものだった」とあった。
 彼の偉大さは選手を育て、チームを強くするだけでなく、日本のサッカー人に“世界”を語り、未来への夢を与えたことにもあった。
 75年、彼がバイエルン・ミュンヘンを率いてUEFAチャンピオンズカップ(現・UEFAチャンピオンズリーグ)で優勝したとき、ドイツの記者から「この欧州でのタイトルはあなたにとって最も誇るべき業績でしょう」と問われ、彼は「私の最も誇るべきタイトルは日本代表が68年メキシコオリンピックで3位、銅メダルを獲得したことだ」と答えている。
 日本サッカーの興隆に力を尽くし、日本と日本サッカーを愛したクラーマーさんが去った。日本サッカーがクラーマーさんと出会ったことは日本の幸運だったと思うと同時に、私自身もこの人と会えたことが、どれだけのプラスであったか、失ってみて、あらためてその大きさを思うことになった。


(月刊グラン2015年11月号 No.260)

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