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修道高校を全国優勝、東洋工業で日本リーグ5回優勝 “東京”後のサッカーをリードした監督 下村幸男(下)

戦後の広島のスポーツ復興

 ことしのJFA(日本サッカー協会)第12回日本サッカー殿堂掲額者四人の一人、下村幸男(しもむらさちお)さんの連載(下)です――。10月号に(上)を掲載しましたが、11月号は亡くなったデットマル・クラーマーの追悼となったので、この号で下村さんを引き継ぎます。
 前回では下村さんが広島出身、修道中学2年生のとき原爆に遭い、多くの同級生を失ったが自身は直接爆風を受けずにすむ幸運で、中学生からGKでプレーし、東洋工業に入社後もレギュラーGKとして全日本実業団選手権や天皇杯で活躍したことを紹介した。
 東洋工業サッカー部(後のマツダSC、現・サンフレッチェ広島)は1938(昭和13)年に創部、49年ごろから強化が進み、原爆で焼け野原となった広島のスポーツ復興にプロ野球のカープとともに中心的な存在となり、54年の第34回天皇杯決勝(甲府開催)で慶應BRBと延長また延長の3時間15分に及ぶ長時間の試合を戦い、敗れはしたが東洋工業の名を強く印象づけた。
 下村さんは50年入社以来レギュラーのGKでプレーし、この長時間試合も経験した。56年のメルボルン・オリンピックの日本代表にも入り、やがて母校・修道高校のコーチを務め、61年秋の国体に優勝、62年2月の高校選手権にも優勝した。チームには後の日本代表・森孝慈(早大→三菱重工=現・浦和レッズ)、決勝の相手は山城高校で2年生の釜本邦茂(メキシコ・オリンピックの得点王)がいた。


選手たちの「ひたむきさ」

 東京オリンピックの翌年、1965(昭和40)年に日本サッカーリーグ(JSL)がスタートした。企業8チームによる初の全国リーグは、28年後にプロのJリーグとなるのだが、この日本サッカーの大きな牽引力となったJSLで下村幸男監督の東洋工業は4年連続優勝する。70年にも優勝して、下村さんは5回のリーグ優勝監督になった。
 このJSL初期の東洋工業の優勝は、中軸の小城得達(おぎありたつ)をはじめとする選手たちのひたむきさ、広島特有の地域意識の強い表れだったが、下村監督と選手たちが全員の動くサッカーを目指したことが大きな基盤となった。日本サッカーが当時の世界の潮流に遅れまいと心がけた「攻守の切り替えの早さ」を実際にチームとして生かしたのが東洋工業で、特に堅い守りの上に立っての守から攻への転換の早さで、他のチームを圧倒した。攻撃の左サイドを担う松本育夫、桑田隆幸の縦への早さ、ストライカー桑原楽之(くわはらやすゆき)のシュートは久しく忘れていたサッカーの爽快さを思い出させるものだった。技術レベルの高い広島出身の高校生が関東の大学リーグを経験して戻ってきたこともあったが、何よりチーム全体の「ひたむきさ」が見る者を引きつけた。
 リーグ2年目には東京の三菱重工に明大から杉山隆一が入社した。3年目にはヤンマー(現・セレッソ大阪)に早大の釜本邦茂が加わった。スタープレーヤーの加入で、JSLは人気の面でも実力の面でも日本のトップリーグとなったが、東洋工業は、その中でトップを譲らなかった。
 下村さんは72年に藤和不動産サッカー部(後のフジタ工業クラブサッカー部、現・湘南ベルマーレ)の監督となる。栃木県を本拠とするこのクラブは、元東洋工業の石井義信がチームを育て、JSL入りしたときに下村さんを迎えたもの。
 下村さんはここで、セルジオ越後をブラジルから招き、アマチュアのJSLで初めて「元プロ」をプレーさせた。監督業は2年で終わったが、東洋工業では広島勢で固めたチームで優勝を重ね、藤和不動産では海外からのプロを招き入れる幅の広いチームづくりをみせたところに下村さんのサッカー指導者としてのレベルの高さ、懐の深さがあったと思う。
 83歳を超えてまだジムに通い、体調を整えている下村さんが、その長く深い経験で今のサッカーを見続け、アドバイスしてくれることを期待したい。


(月刊グラン2015年12月号 No.261)

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