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リーグ優勝3回、天皇杯優勝3回 ヤンマーを率いたJSL最多勝監督 鬼武健二(上)

サッカー殿堂入り

 昨年9月10日の日本サッカー協会(JFA)の創立記念日に第12回日本サッカー殿堂掲額者表彰があり、松丸貞一(故人)、下村幸男、二宮寛、鬼武(おにたけ)健二の四氏が掲額された。松丸、下村両氏については、この連載でも紹介しているので、今回はヤンマーディーゼルの監督として日本サッカーリーグ(JSL)で多くの優勝を果たし、Jリーグのチェアマンとしても実績を残した鬼武健二さんに登場していただくことにした。
 鬼武さんは1939(昭和14)年9月19日生まれだから76歳、ヤンマーディーゼル・サッカー部の監督としてアマチュアのJSLでのリーグ優勝3回、天皇杯優勝3回と日本一を経験し、JSL22年の歴史の中でも最多勝(93勝)監督という成績を残している。釜本邦茂という例を見ないストライカーを軸につくり上げた鬼武監督のヤンマーは、今も古いファンには懐かしく、楽しい思い出の尽きないチームである。
 Jリーグの誕生とともにプロとなったヤンマーがセレッソ大阪となって現在に至っているが、そのセレッソ大阪の初代社長を務めたのも鬼武さん。さらにJリーグの第3代チェアマンとなって日本のトップリーグの運営に当たったことは多くの知るところ。


早大で全試合出場

 鬼武健二さんは広島の生まれ。サッカーでも進学でも名門の広島大学付属高校の出身、戦前の広島高等師範付属中学校と称したころから、多くの名選手を生んだこの学校で、小学校、中学校、高校と一貫教育を受けた。
 サッカーに熱中した高校時代、もともと足が速く、ドリブルが上手で右ウイングのポジションで活躍した。仲間にもいいプレーヤーがいた。一年後輩に丹羽洋介(東洋工業で活躍)もいてチーム力は高い方だったが、なにしろ広島はサッカーどころ。強チームを相手に県予選を突破できないまま高校サッカーは終わりとなる。
 ただし、その能力は早稲田大に進学するとすぐに認められ、入学早々から右ウイングのレギュラーとなる。上級生には、後にJリーグ初代チェアマン、JFA第10代会長となる川淵三郎がいた。
 1958(昭和33)年に入学し、62年に卒業するまでの間、公式試合の全試合に出場し、関東大学リーグの優勝をはじめ、学生としてトップの栄冠をつかむ味を覚えた。当時の早大は有名な工藤孝一監督(故人)のもとで、単純なキック・アンド・ラッシュで強みを発揮していた。工藤監督はベルリン・オリンピック(36年)の日本代表のコーチを務め、経験豊富な人だったが、当時の学生たちの技術や体力から、あえて蹴って走るという単純な戦術で個々の力を伸ばそうとしたのだろう。タケさん(鬼武さんの愛称)はそうしたなかでも自分の技術(ドリブルやクロスなど)を高めることに努力したようだ。  早大を卒業すると大阪のヤンマーディーゼルがチームの強化を図っていることもあり、早大の先輩がいたこともあって、大阪で働き、サッカーにも熱が入った。
 64年の東京オリンピックで日本サッカーはクラーマーというドイツ人のコーチの指導と選手たちのがんばりで代表チームの実力が伸び、本番で南米の強豪アルゼンチン代表を破って世界中を驚かせた。そのオリンピックの成功を足場にJFAは次の年に全国リーグ「JSL」をスタートさせた。ちょうど昨年のラグビー日本代表がワールドカップで南アフリカを破るなどの好成績を足場に国内リーグも注目されるようになったのと似た形だが、プロ野球以外のすべてのスポーツに先駆けてスタートした全国リーグ、JSLもまた新しい社会現象としてメディアやスポーツファンの注目の的となった。全国から参加した企業8チームの中に関西からただ一つ、ヤンマーが加わった。
 タケさんこと鬼武健二さんは、このヤンマーの主力選手としてプレーしたが、チームは8チームの中で下位低迷の状態。リーグ2年目には降格のピンチにも脅かされることになる。そうした危機的なヤンマーの実力アップを図って、山岡浩二郎部長が打った手が日本代表のストライカー・釜本邦茂(早大)を迎えることだった。優秀な後輩を得て、タケさんの仕事にもまた励みのつくことになった。


(月刊グラン2016年2月号 No.263)

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