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金子彌門 旧制中学生でサッカー、ラグビーの 全国大会二冠を目前に

2年生からレギュラー

 11月中旬に、今のラグビー盛況の仕掛け人ともいうべき、日本ラグビー協会15人制日本代表GMの岩渕健輔さんとの対談の機会があり、岩渕GMの改革の苦労と成功についてうかがった。39歳の若い推進者の話を聞きながら、1968(昭和43)年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した時の日本代表の監督・長沼健さん(故人)、コーチ・岡野俊一郎さん(JFA名誉顧問)が、それぞれ38、37歳であったのを思い、若い世代の改革力とスポーツの歴史の面白さをあらためて知った。
 ――といって、今回はラグビー改革を論じるのではなく、古い時代にサッカーとラグビーの二つの競技の全国大会で大活躍した私の先輩について――。

 金子彌門(かねこやもん)、通称ヤンさんは兵庫県立第一神戸中学校、つまり旧制神戸一中(現・神戸高校)で私より6年上、37回の卒業生――。この連載でも登場した大谷四郎さん(故人、1953年ドルトムント国際学生スポーツ週間参加の日本代表コーチ)と同期、ポジションはHB(ハーフバック)で、5年生(最終学年)のときはCH(センターハーフ)だった。
 1931(昭和6)年に神戸一中に入学した金子さんは2年生のときに蹴球部(サッカー部)に入り、この年、東京高等師範を卒業して神戸一中の体操の教諭、サッカー部副部長となった河本春男先生(故人、後のユーハイム社長)と出会う。近視でメガネをかけていたがドリブルもキックも上手で、また、走ることを苦にしない方だったから、8月の関西学院主催の大会にはレギュラーとなった。
 このチームには5年生に、後に日本代表候補となった播磨幸太郎(故人、戦前の慶應大学黄金期の主将)や小橋信吉らがいて全国中等学校蹴球選手権大会(現・全国高等学校サッカー選手権大会)の兵庫予選を勝ち抜き、全国大会でも優勝した。
 次の年は兵庫予選で敗退したが、1934(昭和9)年度のチームは二宮洋一、田島昭策、笠原隆、津田幸男といった後の日本代表が5人もいて、神戸一中の歴史の中でも実力あるチームだった。主催の大阪毎日新聞社によって、全国中等学校選手権大会が冬から夏に移行することになって大会は中断し、代わって全国招待大会が企画された。この大会に優勝しただけでなく、各種の大会にすべて勝っている。
 金子さんが5年生となったとき、強力な二宮、田島たちの卒業でチーム力の低下が懸念されたが、大谷四郎キャプテンの決定力と金子さんの豊富な運動量は懸念を吹き払い、春の招待大会優勝で自信をつけ、8月の全国中等学校選手権の兵庫予選を突破し、全国大会にも優勝した。兵庫県予選は4試合すべて3点差以上、全国大会は8−0滋賀師範、6−1広島一中、5−2刈谷中学、決勝は2−1天王寺師範だった。
 当時のサッカーは、まだ2FB(フルバック)時代でウイングハーフ(サイドのHB)とFBが相手のCF(センターフォワード)と両ウイングをマークし、CHは中盤で攻撃の要としてプレーした。ロービング(ROVE=歩き回る)センターハーフと呼ばれたこのポジションは金子さんには適役だったろう。


「おじゃみ」が上手

 私が初めて金子彌門さんに会ったのは、この人が神戸一中4年生のとき。河本春男先生が金子さんともう一人の生徒とともに我が家の隣家の2階に下宿してからだった。
 小豆を小さな袋に入れて足で蹴り上げるボールリフティングに似た遊び「おじゃみ」をしていた私たち小学生を見て、通学の制服姿の金子さんが「貸してごらん」と言って小豆の袋をとり、編み上げ靴でリフティングをした。その上手なのに驚いたものだ。
 夏の全国大会が終わって、しばらくすると金子さんが冬に行われるラグビー大会に出ると聞いた。ラグビー部長の強い勧めがあったらしいが、この全国大会に出場した金子さんはFBで勝ち進み、決勝で天理中(現・天理高校)に惜敗した。この試合を私は見に行けず、兄・太郎(当時、神戸一中1年生)が応援から帰ってきて、「リードされた最後の攻めで、金子さんがドロップゴールを決めるチャンスがあったが、前の選手が金子さんにパスをせずに突っ込んでつぶれてしまった。金子さんがドロップをしておれば勝てたの」にと悔しがっていた。
 今でいう全国高校大会のサッカーとラグビーの二冠となれた唯一のチャンスに、あと一歩に近づいた金子彌門さんは今のラグビーブームをどう見ているだろうか。


(月刊グラン2016年1月号 No.262)

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