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鬼武健二(下) ヤンマーでリーグ優勝3回、天皇杯3回 Jリーグ・セレッソ大阪、Jリーグチェアマンで成功

若いチーム率いる

 1967(昭和42)年4月、早大を卒業した釜本邦茂がヤンマーディーゼルに入社した。6月にブラジルから日系二世のネルソン吉村も加入した。2人はチームの顔となり、前年まで最下位争いの常連だったヤンマーはこの年の日本サッカーリーグで14戦6勝2分6敗と8チーム中5位となる。
 早大時代に4年連続して関東大学リーグの得点王となり、66年の第5回アジア大会での日本3位の大きな力となっていた釜本はこの年のリーグでチームの総得点(28 )の半分を決めた。
 首位・東洋工業(現・サンフレッチェ広島)の安定した力には及ばなかったが、杉山隆一のいる三菱重工(現・浦和レッズ)とともに関東、関西の背景もあって東と西の人気チームとなる。
 つぎの年68年は秋のメキシコオリンピックで日本代表が3位となり銅メダルを獲得し、釜本邦茂選手はオリンピック大会の得点王となった。ヤンマーもリーグ2位となり、東洋工業や三菱重工と並ぶリーグのトップチームとなった。釜本の技術力アップには68年1〜3月にかけて西ドイツへの2カ月余の単身留学の効果があった。これは釜本の入社の時からの計画で、当時の日本の常識になかった。単身留学を考えたヤンマー側の釜本の「レベルアップ策」は見事に成功した。
 若い伸び盛りのヤンマーを率いていたのが鬼武健二監督。会社側の責任者であった山岡浩二郎サッカー部長と協調しつつ若いチームをまとめた。
 「チーム全体が若く、釜本をはじめ選手たちは、いつも明るく前向きだった」と監督はまとめるのに大きな苦労はなかったというが、ケタ違いの大物選手と育ち方の全く異なる日系ブラジル人を主力とするチームをひとつにするのはなかなかのことだった。  毎日の練習の後、会社グラウンドに近い会社の研修寮で夕食をともにするようにしたのも新しい環境改善策だった。同じ食事をすることで栄養のバランスをとること、チームの和をはかることが狙いだった。
 アマチュア規定の厳しい当時はスポーツによって選手が物質的な恩恵を受けることは許されなかったから、チーム全体の環境整備に力を入れることが大切で、ヤンマーは鬼武監督の時から、この点に力を入れ、リーグ各チームも倣うようになる。
 いまから見れば不思議なようだが、当時はこうした環境改善も監督にとって大事な仕事だった。
 釜本の成長とともに伸びた鬼武監督のヤンマーは3年目にブレーキがかかる。69年6月、釜本がウイルス性肝炎との診断で入院した。釜本は病に立ち向かい、この年後期リーグから出場する。コンディションの回復までに、まだ時間が必要だった。
 急成長のストップしたヤンマーが釜本の回復とともに戦力を整えたのは1971年。9勝4分1敗、総得点33、失点13という圧倒的な成績で日本サッカーリーグで初優勝した。
 釜本は68、70年についで3度目の得点王となった。鬼武ヤンマーはこの初優勝以来77年までにリーグ優勝3回、天皇杯獲得3回の成績を重ねた。
 山岡浩二郎という斬新なアイデアを持つ部長とともに鬼武監督は、釜本邦茂というスターを中心にチームづくりに努力した。ブラジルに工場を持つ会社は、ブラジルの日系プレーヤーを来日させるだけでなく黒人プレーヤーをも加入させ、リーグの中に”国際”を持ち込んだ。
 74、75年にはリーグ連続優勝し、75年の天皇杯の元旦決勝にも勝って、日本のトップチームの地位を確保した。
 ヤンマーでチームづくりの実績を重ねたタケさんはJリーグのスタートとともにヤンマーを母体とするセレッソ大阪の社長に就任した。
 出遅れの感のあったセレッソをJリーグのトップチームに仕上げるには、ヤンマー時代の経験がものをいったが、常に新しいものに挑戦してきた姿勢は変わらなかった。 セレッソの社長からやがてJリーグのチェアマンとなり、運営面での采配を振るうことになるが、タケさんがJリーグのトップに立つことに異論を唱えるものはいなかった。それは、多くの人が彼のヤンマーでの実績を知っていたからだろう。
 Jリーグの仕事を終わり、大阪サッカー協会会長職を終えたが、こうした実力者がいることが、今のサッカー界の厚みといえる。


(月刊グラン2016年3月号 No.264)

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