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1930年の日本代表で初のハットトリック 夭折した“天才”FW 若林竹雄(上)

 2月13日のNHKテレビ「アジア再発見の旅 ミャンマー 知られざる交流の物語」を見た。かつてビルマと呼ばれ、長い間軍政下にあったのが5年前の民主化以来世界から注目されている国だが、このミャンマーとの交流誌の中で、日本サッカーの恩人のビルマ人留学生のチョー・デインさん(故人)の紹介があり、1923(大正12)年ごろの、この人の指導が現在の日本代表のショートパス・スタイルとなったと伝えていた。
 チョー・デインさんについては日本留学から帰国して以後について、これまで不明だったが、この番組でその一部が明らかになったのは、さすがにNHKというべきだが、そのテレビ画面を見ながら私はチョー・デインの直弟子ともいうべき先輩たちを思い出していた。
 その一人が若林竹雄さん(故人)――。
 旧制・神戸一中(現・神戸高校)の26回生(1925=大正14年卒業)で、私(43回生、42年卒業)より17歳年長。30(昭和5)年の第9回極東大会の日本代表FWとして活躍し、日本代表で初めてハットトリック(1試合3得点)を記録した名選手である。次の年の関東大学リーグの試合中に衝突がもとで夭折されたが、神戸一中蹴球部の長い歴史の中でも、仲間から“天才”と呼ばれた数少ない一人だった。
 極東大会は、フィリピンと中華民国と日本の三カ国の参加による東アジアでの総合スポーツ大会(後に他の国も加わった)、初期には極東オリンピック大会と称したこともある。日本のサッカーは1917(大正6)年の第3回大会(上海)で初めてフィリピンに勝ち、この第9回では中華民国に勝つことを目指していた。そのころ関東大学リーグの覇者であった東大を中心にJFA(日本サッカー協会)は初の選抜チームを代表として出場させた。東大にいた若林さんはFWの左インサイドのポジションでプレーした。第1戦の対フィリピン(7―2)は2点リードされた後日本が逆転したのだが若林さんは、日本の1点目、2点目を決めて同点とし、手島志郎のゴールで3―2となった後、日本の4点目も決めて勝利に貢献している。
 第2戦の対中華民国戦はシーソーゲームの末、3―3の引き分け、若林さんはゴールこそなかったが、念願の極東1位のために奮闘した。
 日本サッカーにとって中華民国との引き分け、フィリピンに快勝したこの大会は、国内的に「蹴球(サッカー)もなかなかやる」という印象を高め、東アジアよりさらに広い舞台、オリンピックを目指すステップとなった。ただし、この大会に臨むための日本代表は2度の合宿を行い、その猛練習はCFの手島志郎が「極東大会といえば試合よりも、まず練習の厳しさ、つらさを思い出す」と言ったほどだった。もともと強健というタイプでなかった若林さんにもかなり重荷だったかもしれない。次の年1931年秋の関東大学リーグの第2戦、対慶応大で試合中に激しく衝突し、それがもとでほどなく亡くなったのだが、この間の事情に詳しい田辺五兵衛さん(故人、日本サッカー殿堂入り)は「極東大会の合宿の猛練習がこたえたのが、その後のシーズン東大対慶大の一戦で、ゴール前の衝突以来ついに立てずこの世を去った。依頼、日本代表選手の選抜には健康検査を厳重にするようになった」と言っている。
 神戸一中26回生の若林さんは卒業が1925年だから逆算すると07(明治40)年生まれ、14(大正3)年に御影師範付属小学校に入学し、20(大正9)年に神戸一中に入学となる。
 神戸一中を卒業し、松山高等学校を経て東大に進んだ。
 東大のサッカー部史「闘魂90年の軌跡」によると1928(昭和3)年に若林さんは水戸高校の春山泰雄、東京高校の篠島秀雄たちとともに入学、入部して東大の強力FWをつくったと記されている。
 このころの東大は旧制高校でみっちりサッカーに打ち込んだ優秀なプレーヤーが集まって、関東大学リーグでも首位を続けていた。
 竹越重丸(たけのこし・しげまる)さんが1925年から4年間の在学中に基礎をつくったのだが、その4年目のことだった。大学リーグで無敗であった東大が主力となっての編成は当然とみられ、とくに左から春山、若林、手島、篠島、高山忠雄と並んだFWは、東大そのままのメンバーで個人能力の面でも、日本では随一の攻撃力、得点力と評価されていた。その多士済々のFWの中でも若林さんはドリブルとシュートのうまさで知られていた。


(月刊グラン2016年4月号 No.265)

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