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チョー・デインに習い日本のレベルアップに貢献 若林竹雄(下)

中学2年でレギュラー

 前号に続いて若林竹雄さん――。86年前に日本代表として最初にハットトリック(1試合3得点)を記録。仲間たちからドリブルとシュートの巧さで“天才”と称されながら試合中の負傷がもとで夭折した名FWである。
 前号では、若林さんの極東大会でのプレー、1930(昭和5)年、東京の明治神宮外苑競技場(のちの国立競技場)で行われた第9回極東大会での活躍ぶりとハットトリック第1号となった対フィリピン戦のもようを紹介した。
 この号では、若林さんのプレーヤーとしての成長の跡を眺めてみる。
 若林竹雄さんは、神戸育ちで旧制神戸一中(現・神戸高校)の26回生(25=大正14=年卒業)。43回生(42=昭和17=年卒業)の私よりも17歳年長の大先輩にあたる。  若林さんが神戸一中に入学したのは20(大正9)年で、当時の上級生では有名な白洲次郎(しらす・じろう)がキャプテンだった。すでに大阪毎日新聞社主催の日本フートボール大会(現・全国高校選手権大会の前身)が始まっていた。
 次の年、豊田善右衛門キャプテンのとき若林さんは2年生で左ウイングに起用されている。隣の左インサイドが高山忠雄さんで、のちに同じ極東大会の代表となる人。高山さんは神戸高校の校長時代に自らユニホーム姿で高校生をコーチしたことでも有名だが、神戸一中が第一期黄金時代に向かって成長していくころだった。
 中3のとき若林さんはすでにチームの大きな戦力で23(大正12)年2月の第6回日本フートボール大会は準決勝に進みながら御影師範と1―1で引き分け、GK(ゴールキック)の数で御影が決勝へ進み優勝している。大会のルールでスコアが同じときは、まずCK(コーナーキック)の数と比べて多い方が勝ちとし、CKが同じときはGKの少ない方を勝ちとして、次の試合へ進んでいた。CKやGKの数で決めたのは、どちらが攻め込みが多かったということだったろうが、ノックアウトシステムの大会に次に進むための(不思議ではあるが)ルールだった。
 若林さんが4年生のときキャプテンは西村清、後に赤川公一で、このときにビルマ人チョー・デインが神戸一中を半日コーチした。彼の理論的な説明と自らキックやトラッピングのプレーを見せての指導によって、神戸一中の部員たちは、それまでの疑問が氷解し、短時間でチョー・デインの教えを身につけたという。
 西村キャプテンは「チョー・デインの一冊のテキストと数時間の手ほどきが神戸一中の黄金時代をもたらし、また日本全国のサッカーのレベルを上げる結果となった」と記している。
 今から思えば1964年東京オリンピックの前にドイツ人コーチ、デットマル・クラーマーに出会った日本代表たちが、彼の指導によって大変化したのにも似ている。


中5で無敵チームの主将

 次の年、若林竹雄を主将とする神戸一中は、名古屋の旧制八高主催第1回中等学校大会、神戸高商主催の全国中等学校大会にそれぞれ優勝し、1年の総決算ともいうべき第8回日本フートボール大会にも初優勝した。決勝の相手は宿敵御影師範だったが、3―0で破っている。
 若林さんは神戸一中を卒業後、松山高等学校に進学してインターハイで活躍。28(昭和3)年東大に進み、篠島秀雄(後にJFA副会長)や春山泰雄らとともに東大の攻撃力アップの力となった。
 東大は26(大正15)年第3回関東大学リーグから連続優勝中で、若林さんは高山忠雄(12得点)に次いで8得点。関東大学リーグで5戦全勝、総得点33、失点4という圧倒的な強さをみせた。
 次の年には広島高校の手島志郎が加わり東大の連続優勝は続いた。
 第9回極東大会での活躍、その3年前に神戸一中OBクラブ(神中クラブと称した)の明治神宮大会兼日本選手権の優勝もあって、若林さんのプレーは日本のトップの一人として高く評価されたが、30年の秋のリーグの対慶大戦でプレーヤー同士の衝突がもととなって、若林竹雄さんは若くして去ってしまった。サッカー界に選手の試合での事故防止、健康管理はこのときの教訓から進むことになったと言われている。
 若林さんの短いサッカー人生を眺めるとき、サッカーがラグビーと同じように激しい動きも必要だが、同時にボールを扱うテクニックが重要であることを知ることになる。


(月刊グラン2016年5月号 No.266)

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