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ヨハン・クライフを偲んで 比類なき攻撃プレーヤーで 変革をリードした指導者

 ヨハン・クライフが3月24日に68歳で亡くなりました。1960―70年代にオランダとスペインで世界最高のプレーヤーとして活躍し、85年から96年までバルセロナ(略称バルサ)の監督を務めてバルサをトップチームにするとともに、バルサを通じてスペインサッカーの変革に関わったサッカー界のリーダーでした。訃報の後多くのメディアがその業績をたたえ、サッカーマガジンのようにクライフ特集を出版したところもあります。私の談話や原稿も新聞や雑誌に収録されていますが、この連載でも彼のプレーや、指導者としての素晴らしさを語り、読者とともにクライフを偲ぶことにしました。


トータルフットボールの衝撃

 ヘンドリック・ヨハネス(ヨハン)・クライフ(Hendrik Johannes Cruyff)は1947年4月25日、オランダの首都アムステルダム生まれ。ブラジルの生んだ王様ペレより6歳年少で、ドイツの“皇帝”ベッケンバウアーより1年7カ月若い。身長は1メートル81、ペレよりは高く、ベッケンバウアーと同じだが、大柄で頑健タイプの多い74年オランダ代表のなかでは“きゃしゃ”な感じだった。
 私が初めてクライフを見たのは74年のワールドカップ西ドイツ大会のとき、すでにオランダのアヤックスクラブで欧州チャンピオンズ・カップ(現在のチャンピオンズ・リーグ)に3年連続優勝して、自身はスペインのFCバルセロナに移籍していた。
 この74年ワールドカップでオランダ代表とクライフは新しい試合を演じた。トータルフットボール、あるいはプレッシング・フットボールと呼ばれ、ハーフラインあたりで相手ボールを「囲み込み」で奪い、奪うとすぐに攻勢に出る。それも従来とは違ってFWだけが攻めるのでなく、MFもDFもどんどん前方へ攻めるというやり方。つまり現在、日本でも世界でも行われているサッカーだった。1次リーグB組でオランダはウルグアイを2―0で破り、スウェーデンとは0―0、ブルガリアを4―1で撃破した。2次リーグでもアルゼンチンを4―0、東ドイツを2―0で破り、前回優勝のブラジルにも2―0で完勝した。7月7日の決勝で開催国西ドイツと対戦して1―2で敗れたが、準優勝に終わっても新しいサッカーをワールドカップのひのき舞台で演じたオランダ代表と、その中心となったクライフは高く評価された。
 私にとっては、この大会でクライフと彼のオランダを取材できたことはまことに幸運だったし、オランダから新しいサッカーを導入したドイツとの決勝が新しいサッカー同士の戦いであったこともあって、自らのサッカーの勉強としても大きな経験をしたと今でもうれしく思っている。
 最盛期のクライフをスタンドから眺め、試合前のウオーミングアップをすぐ間近で見た私は、当時のクライフのライバルでもあったベッケンバウアーの師匠でもあったデットマル・クラーマーとともにベッケンバウアーとクライフの比較を何度も語ったこともプラスだった。


飾らぬ人柄、有能な指導者

 そのクライフが1980年にNASL(北米サッカーリーグ)のワシントン・ディプロマッツとともに来日したとき、神戸のオリエンタルホテルでインタビューした。このとき彼の飾らない人柄、サッカー好きの青年そのままの話しぶりに、またまた彼に惹きつけられたものだ。この対談の中で“どれだけ早く走るかというよりも、いつ走るかが大切だ”を始め、珠玉のようなサッカー論を聞かせてくれた。天性のボールタッチに絶えることない反復練習で築いたボール扱い、キックの見事さは今も頭に残っているとともにそのための「WORK(練習)」の必要を説くところにクラーマー同様優れた指導者の一面を見た。
 クライフは、このあとバルサの監督になって成功を収め、欧州チャンピオンのタイトルを持ってトヨタカップで来日し、テレ・サンタナのサンパウロ(ブラジル)と対戦した。試合は敗れたが、このときのバルサを見て思わずバルサがオランダ流になったと知った。運動量の多いオランダのサッカーをスペインのクラブに浸透させるのには、どれほど大変だったのだろうかと、そのとき彼のリーダーとしての資質に改めて感じ入ったものだ。
 バルサの変革はスペインサッカーの変革となり、それが今世界に大きな影響を及ぼしているのを思うとき、スーパースター、ヨハン・クライフの偉大さに頭が下がるとともに、誰もマネのできない加速の見事なドリブルや数々のシュート、そしてロングパスなどの名場面を改めて思い浮かべることになった。


(月刊グラン2016年6月号 No.267)

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