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日本中がペレに酔った(中) 44年前の5月26日 2点目に見た「王様の神髄」

■得意の浮き球、左足ボレー

 前号につづいて“サッカーの王様”ペレの日本でのプレーについての話――。  1972年5月26日、今から44年前、私たちはブラジルのクラブチーム・サントスFCとともに来日したペレが、東京国立競技場で日本代表と戦い2度もスーパーゴールを決めるのを見た。
 前号で、その彼の1点目(チームの2点目)を語り、後方からのボールを浮かせて前へ向き、奪いにくる日本の山本芳忠を抑えつつ右足のボレーシュートを決めたところまでを紹介した。
 1940年10月23日生まれのペレは、このとき32歳――。17歳でワールドカップ・スウェーデン大会に優勝して以来3度のワールドカップ優勝を重ねていた。71年にはブラジル代表からの引退を表明したがサントスFCではプレーを続けていた。
 この日、メーンスタンドの記者席から双眼鏡でペレを見つめていた私には、試合が進み、互いに攻め合う展開のなかで、ペレの気持ちが高ぶるのを見て取れた。サントスの2点目、ペレの1点目で場内は沸き立ち、その興奮のなかでペレの2点目が生まれた。
 ペナルティエリア外で、ゴールを背にペレがボールを受け、得意の浮きダマで、日本側をかわして前へ出て、2人をかわして左足ボレーシュートを決めた。
 記者席から見て左手側のゴールは、私たちにはやや暗く、彼が山口をはじめとする日本選手をかわしてシュートへ持ってゆく手順ははっきりとは見えなかったが、ゴールを背にボールを浮かせ、前を向き迫り来る日本選手をまたかわし、そのまま前へ出てシュートした手順は、会社に戻って連続フォトを見て改めて驚いた。
 後方からのボールを、ゴールを背にした形のまま@まず足で浮かせて自分の右手裏のスペースへ落としA体の向きを変えて前へ出る――ところから始まるBボールを追うペレの内側、横から小城得達が防ぎにいったC地面に落ちてリバウンドしたボールを、ペレは頭で突いて出てD小城の前を突っ切りE左足でボレーシュートしたFゴールエリア近くからのシュートはニアポスト側にズバリと決まった。
 ボールを浮かせて相手の背後へ走り込むのはペレの十八番(おはこ)と聞いていた。17歳で初めてワールドカップ(スウェーデン大会)に出場し、その決勝でゴールを決めたときも、浮きダマで相手のDFをかわして決めたのは有名だった。その17歳のときと同じスタイルの抜き方で30歳を越えた彼が日本で同じようなゴールを決めたのだった。


■「会心のゴール」7万人魅了

 試合後のインタビューで彼は、このゴールは生涯の会心のゴールの一つと語った。それだけペレ自身にも喜びが大きかったのだろう。
 相手DFの守りを突破し、シュートの体勢にはいり、シュートを決める――という攻撃の締めくくりは、ゴールキーパー(GK)という守りの専門家が守っているだけに、シュートそのものの正確さや威力だけでなく、タイミング(蹴る時期)がとても重要である。そのシュートのタイミングをずらして、なお姿勢を崩すことなくシュートできるところに改めてペレのストライカーとしての偉大さを知った。
 試合の後、大阪で私は川本泰三、大谷四郎といった論客たちとペレについて話し合った。日本代表の歴史上でも著名なシューターであり釜本邦茂(メキシコ五輪得点王)の師匠格でもあった川本さんはペレのストライカーとしての真髄を見たと言った。「何かの事情でシュートのタイミングをずらすことのできる優れたストライカーはいる。しかし、ペレのように大きくずらせる選手はいないだろう。ストライカーとしての誰もマネのできないところだ」と言った。
 この日の試合の後、長い時間ペレを待って国立競技場周辺に残ったファン。とくに少年たちの多かったこと…。それを見た私の友人で音楽プロモーションの社長さんは、こう言った。「これまでのスポーツの試合で、喜びに泣くこれほど多くの人たちを見たことはなかった。ペレさんのプレーがどれほど人の心をひきつけるかを知った」
 現役選手の充実期にあったペレの最高のプレーを1972年に見ることのできた私は、その後何度か彼と顔を合わせるようになった。1984年に釜本邦茂選手の引退試合を開催したときにも試合に花を添えるためペレを招待したことも交流を深めるひとつとなる。


(月刊グラン2016年8月号 No.269)

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