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日本中がペレに酔った(下) 1984.8.25 釜本を抱き上げ肩車 引退試合で“本領”

 このペレ連載の(中)の脱稿の後、ペレさんの映画を見た。
 「ペレ(伝説の誕生)PELE BIRTH of A LEGEND」と題した映画は、彼の幼少時代から1958年ワールドカップでのブラジル代表の初優勝(ペレも17歳で初参加して活躍した)までを描いている。
 ブラジルのフチボール(フットボール=サッカー)の背景には黒人の間に培われてきたジンガ(GINGA)にあること…ボールを足で扱う巧みさを競うジンガがブラジルのフットボールの根源にあるという製作者の意図が表れていて、とても面白かった。
 貧しい生活の中で選手だった父親とのボールのやりとりのシーンが、それぞれのボールプレーやボールタッチが上手なのが見ていて楽しいところだ。
 月刊グラン誌上で久しぶりでペレさんについて書き始めるとペレの結婚の便りがあり、映画上映ありで、急にペレさんが身近になってきた。不思議な縁というべきだが…映画のおかげで、ブラジルとペレさんについての復習のチャンスをもらったのも有難いことだ。
 さて1972年のペレとサントスFCの国立競技場での一夜の試合は、すさまじいインパクトを日本に残した。私がペレさんと、その後関わりを深めるのは1984年8月、釜本邦茂選手引退記念試合のときとなる。
 選手としてヤンマーディーゼル・サッカー部を弱小チームから日本サッカーリーグのトップ級チームに押し上げ、企業のビッグクラブとなったヤンマーの功労者、釜本邦茂選手の引退試合が84年8月25日、東京国立競技場で行われた。相手は日本リーグ選抜だったが、主催者のヤンマーディーゼルの山岡浩二郎サッカー部長(故人)と相談し、釜本の功績を讃えるためにも最高の引退試合とする案を立て、ヤンマー側チームの一員としてペレ(ブラジル)とオベラーツ(ドイツ)の両選手を招待することにした。オベラーツは、ベッケンバウアーたちと同じ74年ワールドカップ西ドイツ大会優勝のメンバーで、84年6月に74年大会10周年の催しで、西ドイツ対オランダの試合が10年前と同じ顔ぶれで行われたときにとても元気だったという。
 この年の夏にはロサンゼルスオリンピック大会が開催されたが、日本選手はメーンの陸上競技でも水泳でも振るわなかった。そうした背景もあって8月25日の試合日が近づくにつれて入場券の前売りが伸び始め、試合前日のペレの記者会見には100人近くの記者が集まった。
 試合はキックオフ前から超満員の国立で異常な熱気のうちに始まった。
 この日の主役・釜本は前半の早いうちに左からのクロスを決めて先制した。その釜本へのパスの経路はオベラーツが中央から左サイドへパスを送り、ヤンマーの左サイドからゴール前へのクロスを釜本が走り込んで決めたのだった。
 速いテンポのヤンマーの攻めと釜本のゴールで場内は一気に盛り上がった。
 ペレは、ときにオベラーツと釜本との間でパスを交換し、シュートへ持って行こうとした。オーバーヘッドキックも見せた。
 いささか動作はゆったりとして、かつての“早さ”はなかったが、ボールタッチが増えれば増えるほど、何かが生まれそうに見えた。そしてまたオベラーツとペレと釜本の3人の間に微妙な感覚があってボールが見事につながる場面もあり、それが、この夜の楽しさを倍加させた。
 90分はアッという間に過ぎた。大観衆の声援にこたえて釜本が場内を一周し閉会セレモニーに移った。驚いたのはペレがオベラーツとともに釜本を抱き上げ、肩車してカメラに収まり、日本の生んだ国際ストライカー、オリンピック得点王の引退の花道を飾ったことだ。
 場内の「カマモト、カマモト」の大歓声の中で、ペレは自然な感情の動きのまま釜本を抱き上げ、全観衆に釜本に対する彼の敬意を表したのだろう。それは彼が現役選手であったときに、試合の流れと高揚感の中で独特のペレのプレーが生まれたのと同じように43歳のペレもまた引退試合の熱気と興奮の中で、いつの間にか釜本を抱き上げていたに違いない。
 ペレさんは、その後も何度も来日した。2002年のワールドカップ開催のときも、日本側のために働いてくれた。
 ヨーロッパ選手権のような大きなイベントのときは必ずといっていいほど顔を出していたから、その都度ペレさんと顔を合わせた。残念だったのは、私が2015年1月にFIFA会長賞受賞でスイスのチューリヒを訪れたときには、ペレさんは入院中とのことでレセプションに不参加だった。
 ことしは結婚の話が伝わってくるのだから元気なのだろう。リオオリンピック・サッカーの日本代表の試合を見てくれれば、とてもうれしいのだが…。


(月刊グラン2016年9月号 No.270)

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