賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >ベルリンオリンピック代表(続) 殿堂入りした個性豊かな19人

ベルリンオリンピック代表(続) 殿堂入りした個性豊かな19人

 前号に続いて「1936年ベルリンオリンピック日本代表チーム」について――です。  今から80年前のベルリンオリンピックで、初参加の日本代表サッカーチームは、1回戦で強豪スウェーデンに逆転勝ちして世界を驚かせました。ことし9月10日、JFA(日本サッカー協会)は、役員3、選手16人の代表チームの功績を讃えて「日本サッカー殿堂入り」を決め、表彰、掲額しました。ベルリンの代表たちについては、私もこのページで、これまでも個人的に紹介してきましたが、今回の19人のチーム表彰・殿堂入りとなったことで、あらためて栄光の先輩たちに思いを致すことになったのです。

     ◇

 メンバーは▽監督 鈴木重治(早大卒)▽コーチ 工藤孝一(早大卒)、竹腰重丸(東大卒)▽選手 GK・佐野理平(早大、23歳)、不破整(早大、22歳)▽FB・竹内悌三(東大卒、27歳)、鈴木保男(早大卒、23歳)、堀江忠男(早大卒、22歳)▽HB・立原元夫(早大卒、23歳)、笹野積次(早大、21歳)、金容植(京城普成専門学校、26歳)、種田孝一(東大、22歳)▽FW 川本泰三(早大、22歳)、加茂健(早大、21歳)、加茂正五(早大、19歳)、右近徳太郎(慶応、22歳)、西邑昌一(早大、24歳)、高橋豊二(東大、23歳)松永行(東京高師、21歳)。
 16選手のうち早大の学生とOBが10、東大が3、慶応、東京高師(現・筑波大)と朝鮮半島(当時は日本国だった)の普成専門から各1人だった。
 唯一の朝鮮地方出身の金容植さんについては彼が1960年に来日したときに取材したこともあり、昨年はソウルから車で1時間ほどのところにある墓所にもお参りしました。ベルリン世代ではマラソンの金メダル孫基禎さんとともに金さんは忘れることのできない日本スポーツの先輩でもある。
 金さんの特徴は優れたボールテクニックと豊かな運動量だった。ベルリンでもスウェーデンに押し込まれた状態からの攻撃への切り替えのとき左サイドの加茂兄弟を支援した。
 左サイドでチャンスをつくり中央の川本がシュートするのが攻撃の型だった。
 FWの右ウイングは静岡出身の松永で、3人の兄弟がそろって日本代表だった。2人の弟さんたちとは戦後に私も試合をした。兄弟そろって足の速いのが特色だった。長兄の行(あきら)は百メートルで11秒を切ったという。その速さが逆転の3点目につながった。この俊足プレーヤーが「ボール技術の重要さ」を説く書きものを残しているのをみると当時の代表選手たちの技術へのこだわりが知れる。チームはベルリン到着後にヨーロッパの守備体型が3FB制が多くなっているのを知り、それまでの2FBからの大転換をしたのだが、CDFとなった種田(おいた)選手をはじめディフェンダーたちの戦術理解力も高かったようだ。
 大会前の練習試合を見た地元のドイツ人記者たちは日本選手の新知識を吸収する早さに注目していた。そうした能力も強豪スウェーデンに対しての逆転勝ちにつながったのだろう。
 次の対イタリア(0―8)のメンバーは、DFの堀江が負傷したため鈴木が入っただけでスウェーデン戦とほぼ同じだった。
 時間の経過とともに第1戦の疲れが取れていないことが明らかになった。現地のメディアは日本人選手の動きは別人のように鈍かったと記している。
 イタリアはスウェーデンほど体が大きくはないが、個人技術が高く、また荒っぽいプレーで日本を痛めつけた。「相手のウイングのドリブルに日本のDFが気の毒に見えた」とは川本さんの感想。相手のドリブルは疲れた日本に有効だった。
 本番に出場しなかったメンバーにも人材はそろっていた。FWの高橋は総理経験の政治家・高橋是清の孫で、ニックネームは「マゴ」だった。東西対抗で高橋とともに東軍のFWで出場した川本が、この試合で、その頃のプレーの悩みを解消したという記録も残っている。センターフォワードとしてのポジションの取り方や動き方についてのことだろうと想像するのだが……。
 高橋さんはベルリンの後、海軍のパイロットとなり大戦中に飛行機事故で亡くなった。
 小柄なFW西邑(にしむら)さんは長くサッカーを続け、関西学院や読売クラブ(現・ヴェルディ)の監督をつとめ、技術レベルの低かった時期に高い技術への目を開かせた。
 これらベルリンの先輩のうち何人かとは戦後の試合で顔を合わせたことがある。  いずれも基礎の技術のしっかりしていること、試合中の相手との駆け引きに長じていることなどが印象に残っている。有名な堀江さんの頭から飛び込むタックルも目の前で見た。この頭から(上体から)飛び込むタックルは相手とボールとの間に自分の体を入れるひとつの型なのだが「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」を実際に示したプレーだった。


(月刊グラン2016年11月号 No.272)

↑ このページの先頭に戻る