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このくにとサッカー最終章にあたって 

 月刊グランの誌上で「このくにとサッカー」を連載させていただいてずいぶん長い年月が経ちました。
 当時のグラン木本恵也編集長から司馬遼太郎さんの「このくにのかたち」のようなものを書いてほしいとのお勧めをいただいたのですが、私自身はすでに「…かたち」の構想を別に持っていましたので、「日本サッカーが今の形になるまでに、その時々に影響を与えた「人(ひと)を書くことで日本サッカーの歩みを書いてみたい」と申し上げ、編集長のOKをいただいたのを覚えています。
 第1回は竹越重丸(たけこし・しげまる)さんでした。私自身も直接サッカーを教えてもらい、また記者になってからも長く取材の対象となった先達でした。
 以来、別表のとおり、多くのサッカー人を紹介しました。年代順でなく順不同でしたが、アトランダムではなく、その号の発売時期に登場する必然性を考えながらの執筆でした。
 先人の一人一人のプレーをさぐり、その人の残したサッカーへの提言をまとめる作業は、人生の後年に入った私にも毎月の大きな楽しみでした。
 60歳代で亡くなった2歳年長の兄・太郎(元日本代表)や記者の先輩・大谷四郎さん(朝日新聞)、またベルリンオリンピック逆転劇のヒーローの一人川本泰三さんたちと親しく付き合っていただいたおかげで、先輩たちのプレーや日常をごく身近なものと感じることができました。川本さんは、選手として個人技の向上を第一とした名シューターで指導哲学も独自のもの、いわゆる日本人離れの人でした。その川本さんの出身が瀬戸と知って、名古屋や愛知への私の興味、関心が強くなったのかもしれません。
 スタートの時に「このくにの」でなく「このくにとサッカー」としたのは、盛んにはなったが日本の代表チームの監督が必ずしも日本人でなかったことが理由の一つでした。装いを変えた「このくにとサッカー」が「このくにのサッカー」に変わる日を楽しみに月刊グランのイキの長い連載を見守りたいと思っています。


(月刊グラン2017年1月号 No.274)

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