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三浦知良 @50歳、なおも輝く「キング」

 明けて2017年。連載18年目となる今年から「続・このくにとサッカー」とタイトルを変え、Jリーグの開幕から25年目を迎える間に、日本サッカー界で活躍した選手について記していきたいと思います。

グランパス、今こそ骨格を

 その前に、J2に降格した名古屋グランパスについて触れなければならない。月刊グラン読者の皆さんにとって、2017年は特別な1年になると思う。Jリーグ開幕からトップリーグでプレーし続けてきた「オリジナル10」名古屋グランパスが25年目のJリーグをJ2で迎える。私はグランパスのJリーグ開幕を前にしたパーティーに、亡くなった長沼健さんと出席したことを今も思い出す。かつてグランパスの社長を務めた岩崎正視さんが神戸大学予科の同期ということもあって何度となく相談を受け、Jリーグ初期にマッチコミッショナーを務めたこともあって名古屋にも少なからず縁があった。J2降格は残念なことで、1年でのJ1復帰を目指すのは至上命題だが、それと同時に、この機会にクラブそのものの骨組みをしっかりと作ってほしいと願っている。経費の面でトヨタを中心に大きなバックアップを受けているわけだから、この際、世界のトップクラブのやり方を参考に、郷土意識の高い名古屋にふさわしいフットボールのビッグクラブをつくることに力を注いでもらいたい。
 名古屋を中心とした東海地方は、古くは三種の神器の話ではないが、固有の文化圏を持つ日本の先進地域の一つだった。私たち関西人にも親しみのある地域でもある。グランパスがしっかりとした骨格をつくり、実力、人気を兼ね備えた名古屋らしいチームをつくってほしい。日本のサッカーがその時々に応じて他の国から人材を迎えて大きく成長したように、時によっては海外の有力クラブのいい部分も導入することも一つの方法ではないだろうか。

「キング」スマートな受け答え

 Jリーグが華やかに幕を開けた1993年5月15日。国立競技場で開催されたメモリアルゲームに出場した三浦知良、愛称カズが、25年目の今季も横浜FCの選手としてピッチに立つことになる。「続・このくにとサッカー」の1人目は、2月26日に50歳を迎え、なおもプロとしてプレーを続けるカズについて記していきたい。
 2015年1月12日に私がFIFA会長賞を授与されたことを受けて、1月17日にノエビアスタジアム神戸で行われた阪神大震災20年チャリティーマッチの際に、兵庫県サッカー協会から招かれ、表彰をしてもらうことになった。その試合後、2ゴールを決めたカズに声をかけた。「こういう試合でもちゃんと点を取るのは、相変わらずすごいね」。すると、カズはすかさず「賀川さんこそすごいじゃないですか。おめでとうございます」と言葉を返して握手をしてくれた。こういう一言をサラリといってのけるスマートな受け答え。相変わらず頭のいいひとだなと感じた。
 カズと初めて出会ったのは今から30年前の1987年、南米選手権(コパ・アメリカ)の取材でブラジルを訪れたときのことだ。前年に行われた86年メキシコワールドカップでマラドーナを擁したアルゼンチンが優勝し、そのマラドーナとアルゼンチンがコパ・アメリカの舞台で、どのようなプレーを見せてくれるのかと、取材することを楽しみにしていた。日本からもマラドーナを目当てに数人の記者が訪れ、日本サッカー協会の国際委員を務め、南米サッカー取材で何度もお世話になった北山朝徳さんを交えて食事をすることになった。その席にカズと父親が同席していた。サントスを皮切りに、ブラジルの有力クラブを渡り歩いたカズは当時20歳、思ったより色が白いなというのが強く印象に残っている。カズとその時に言葉を交わした記憶はなく、もっぱら父親がしゃべっていたことのほうが記憶に残っている。
 当時、海外のサッカー留学ではブラジルに行く派と、ドイツに行く派に分かれていた。私は78年のアルゼンチンワールドカップを取材で訪れた際も、直接アルゼンチンに入らず、サンパウロでプレーする日本人を訪ねたことがある。カズはその歴史を引き継いだ一人といえる。

上手なサッカーへの転換点

 1990年に日本に帰国、読売クラブ(のちのヴェルディ川崎、現東京ヴェルディ)に入団したカズは、93年に開幕したJリーグで、先に日本にやってきたラモスとともに強くてうまいサッカーを実現してくれた。それは日本のサッカーの転換点だった。  戦前からの日本サッカーは勇ましいスポーツという歴史があった。日本人はラグビーのような勇ましいスポーツを好む傾向があり、ラグビーとサッカーは激しさが魅力であった。中でも象徴的だったのは旧制高校によるインターハイだ。昭和初期、すでに多くの有力選手が集まった東大の選手はうまかったが、当時のインターハイの試合は、キックオフしたら相手の1、2人の足を痛めつけるような激しさがあり、それがフットボールの売り物だった。一方で、私がプレーした神戸一中は、師範学校に勝つために技術にうるさい学校だった。
 古くから頑張ることを美徳とする日本人が走り回るサッカーと、しっかりボールを扱い、ちゃんと止めるサッカーという2つの潮流があった。カズの登場によって、日本のサッカーが上手なサッカーに変わる契機になった。彼が子供のころに、ブラジルからやってきたセルジオ越後が全国を巡回し、ボールを止めるだけでもさまざまなやり方があるといったボール扱いの面白さを子供たちに伝えていた。指導を受けた世代のカズがブラジルに渡って技を磨き、Jリーグでのプレーを通じて子どもたちがあこがれる存在となった。
 私はカズをメーンの題材にして記事を書いたことがない。釜本邦茂のように小学校のころから知っている選手と違い、カズは静岡出身であり、若くして海外に渡ったこともあって、育った過程を見てこなかったということもある。京都、神戸という関西のクラブでプレーした経験もあるが、詳しく言葉を交わしたことはない。ただ、天下のカズなので、常に関心を持って見てきた。ぜひ一度じっくりインタビューをしたいと願っている。(続く)


(月刊グラン2017年2月号 No.275)

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