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岡野俊一郎さんを偲ぶ

 立春を前にした2月2日、元日本サッカー協会会長の岡野俊一郎さんが85歳で亡くなった。日本代表のコーチとしてメキシコオリンピックの銅メダル獲得に大きく貢献し、その後はサッカー界の枠を超えてIOC委員としても活躍、日本のスポーツ界に大きな足跡を残した人生だった。予定を変えて「俊さん」を偲びたい。

【腹の据わった「戦中派」】

 訃報を聞いた時、2020年の東京オリンピックを見届けてほしかったという想いが強くなった。それだけ、日本のスポーツ界に残した功績は大きかった。
私が岡野さんを初めて見たのは、彼が東大サッカー部の選手だったころ。キャプテンとして朝日新聞社主催の第1回全国大学大会(後の全日本大学選手権)で優勝した。技術の高い上手いFWだったという印象が残っている。
 岡野さんは1931年生まれのいわば「戦中派」だ。上野の老舗和菓子屋の五代目として生まれ、疎開もせず焼け野原となった東京の惨状を目にしている。帰宅したら空襲で家がなく、蔵だけが残っていたという。そんな少年期の体験もあってか、とても腹が据わっていたという印象がある。
 旧制の都立五中(在学中に小石川高校に名称変更、現在の小石川中等教育学校)在学中にサッカーを始め、東京大学に進学、22歳で国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)の日本代表に選ばれた。竹腰重丸監督、岩谷俊夫コーチのもと大幅な若返りを図った1955年の日本代表タイ・ビルマ遠征には、後にコンビを組む1歳年上の長沼健さんとともに選ばれた。この遠征では、原因不明の熱発をした岡野さんの氷のうを、負傷のため試合に出られなかった長沼さんが取り替えてくれたという。以来「頭が上がらなくなったよ」と話していた。

【指導者としてメキシコの「銅」導く】

 着実にサッカー選手としての頭角を現しているとみられていたが、周囲は違う見方をしていた。この遠征が終わった後、岩谷さんが「いい指導者の卵がいるよ」と話していた。それが岡野さんだった。家業を継ぎ、実業団チームに所属していない岡野さんには、実戦の経験を積める場がなかった。当時の強化スタッフだった川本泰三さんから「指導者になれ」と口説かれた。
 1964年の東京オリンピック開催が決まり、日本代表チームの再建を進めていた日本協会は、1960年に西ドイツからデットマル・クラーマーをコーチとして招く。2か月間、通訳として行動をともにした岡野さんは翌年、西ドイツにコーチ留学。そのまま第3回アジアユース大会(タイ・バンコク)で監督を務めた。29歳の若さだった。
 さらに1962年12月にディナモモスクワ、スウェーデン代表を招いての三国対抗大会(東京)を行うにあたり、竹腰さん、川本さんら強化スタッフの発案で長沼、岡野の日本代表監督、コーチが誕生した。この人選に大きな影響を与えたのがクラーマーさんだった。英語、ドイツ語ができる岡野さんは、彼にとって信頼ができる存在で、クラーマーさんの母親からも「日本の私の息子」と言われたという。岡野さんが伝え続けたクラーマーの想いが、今日の日本サッカーの基礎となっているといえる。
 主張するところはしっかり主張する。それが岡野さんの信念だった。ともに30代前半、長沼さんとは2人でコーヒーだけで3時間も4時間も議論したこともあったという。その一方で釜本邦茂のヘディングのタイミングが合わない時には、クロスを何十本も蹴って付き合った。理路整然として、ガミガミと厳しいことを言うので、選手にはうるさがられたが、岡野さんはあえてその役を買って出ていた。そして最後は長沼さんが包み込んだ。そんな名コンビがメキシコオリンピックの銅メダルへと導いた。大会後、協会の機関紙に「岡野リポート」を寄稿したが、相手の分析、作戦…その成否が克明に記されている。的確な分析力だった。

【的確な解説、豊富な人脈】

 その分析力は、東京12チャンネル(後のテレビ東京)で1968年から20年間にわたって放送された「三菱ダイヤモンドサッカー」の解説者としてもいかんなく発揮された。ワールドカップを始め、海外の名試合を紹介した番組は、サッカー界にとって低迷期というべき時代に貴重な役割を果たした。岡野さんはプレーの解説だけでなく、その土地の文化などの知識を織り交ぜた柔らかな語り口で多くのファンを得た。番組を見た人は、後にJリーガーとなり、指導者して活躍をしている。今日のサッカー界の隆盛を支えた意味でも、この番組の存在は大きかった。
 和菓子屋の五代目だった岡野さんは、東大卒にもかかわらず、エリートぶったところがまったくなかった。商売人の血筋なのか、人当たりもとても良かった。人脈はスポーツ界を超え、政官財の各界、海外にも及んだ。1984年のロサンゼルスオリンピックで野球がエキシビジョン競技として採用され、日本が出場できたのも当時JOC総務主事の岡野さんの尽力によるものだった。現在、日本のプロ野球選手がアメリカにわたってメジャーリーグでプレーしているが、その目を開かせたのがこのロサンゼルス大会だった。バルセロナ大会などで野球競技の始球式に登板したのも、その功績を認められてのことだ。  日本と韓国の共催になった2002年ワールドカップの招致に関しては、東大卒の岡野さんの存在がサッカー界にとって大きな財産だった。文科省の官僚には東大卒が多く、偉大な先輩の存在が行政とサッカー界をつないだからだ。
 サッカーのフィールドを超えてスポーツ全体に大きな足跡を残した岡野さん。仕事はやり尽くしたかもしれない。だが、繰り返しになるが2020年東京オリンピックはぜひ見届けてほしかった。今はただご冥福をお祈りしたい。

(月刊グラン2017年4月号 No.277)

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