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戦前一番のビッグゲーム「東西対抗」
1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争が終わり、ようやく平和が訪れた。1937(昭和12)年以来、中国への出兵に続くこの戦争によって国力は消耗し、大戦末期のアメリカ軍の航空機による空襲によって、東京、大阪、名古屋などの大都市は潰滅状態となり、地方都市もまた大きな被害を受けていた。
空襲がなくて安心して眠ることができるというのが、都会生活者の、戦争が終わった直後の実感だったが、食糧の乏しさは変わらなかった。食糧配給制度は維持されていたが、正規の配給量だけでは不足で、育ち盛りの子供をかかえた家庭では、食べる物の確保が大変だった。
"モノがない"なかで、スポーツへの願いは強かった。この年の秋にはサッカー好きは、東京でも関西でも、ボールを蹴りはじめた。朝鮮半島の陸軍の飛行隊にいて、10月に復員し、神戸の自宅が空襲で焼失したため京都にいた私のところへも「ボールを蹴ろう、集まろう」という通知が来た。10月28日の日曜日には西宮球技場で試合をした。
1946(昭和21)年2月11日に、東西のOB、学生の対抗試合を西宮球技場で行なうことが、間もなく決まった。東京の明治神宮球技場は、占領軍が使用中で、ナイルキニック・スタジアムと呼ばれていた。甲子園南運動場という、陸上競技併用の球技場は、大戦中に日本海軍の施設となり、戦後はやはり米軍の車輌庫となっていて、大都市の近くでは西宮球技場が、唯一、使用できる芝グラウンドだった。
こうして再スタートをきったサッカーは、昭和21年5月に日本選手権を東京・東大御殿下グラウンドで。秋にはそれぞれ関東大学リーグ、関西学生リーグを再開した。また第一回国民体育大会(国体)が、戦災をまぬがれた京都を中心に関西で開かれた(サッカーは西宮球技場)。そして翌年4月に東西対抗を復活し東京で行なうことになった。
東西対抗は1932(昭和7)年にはじまった、関東・関西の選抜チームの対抗戦で、戦前の一番のビッグゲームだった。
日本のサッカーは東京高等師範(現筑波大学)から各地方の教育系の学校を通じて広まり、昭和初期には、地方都市にも普及していたが、技術水準は、東京や関西の大学が高く、学生やOBが日本の中心勢力となっていた。こうしたトップのレベルをさらに高めるために、東西選抜対抗が設けられ、東西の学生リーグの1位同士が対決する、東西学生王座決定戦(東西大学1位対抗)とともに、もっとも人気のある、また技術的に最高の試合とされていた。
(ジェイレブ APR.1993)