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[特別編]日本とロシア、深い絆

 6月14日(現地時間)。2018FIFAワールドカップロシアが開幕する。大国・ロシアで、どのような大会になるのか興味深いが、今回はロシア(旧ソ連)と日本のサッカーを通じた深い絆を紹介したい。

共産圏で歓迎された「オリンピック代表」

 6大会連続の本大会出場となる日本代表は、サランスク、エカテリングブルク、ヴォルコグラードの3都市で1次リーグを行う。一部には宿泊事情が良くない都市もあり、広い国土を移動する交通網などを含め観戦に訪れるサポーターの中には不安の声もあると聞く。ただ、ヨーロッパにおいて、サッカーについては同じようなレベルでなければ付き合えない。ロシアのような大国になれば、国家の威信をかけて、しっかりとした大会を運営するだろう。
 本田圭佑がCSKAモスクワに所属したことで、日本でもおなじみになったロシアのリーグは、ヨーロッパ何大リーグというくくりには入っていない。しかし、旧ソ連を含む東欧圏の国々には、1964年東京、1968年メキシコというオリンピック2大会における日本サッカーの強化に大きな力を貸してもらった歴史がある。
 1960年ローマオリンピックの出場権を逃した日本代表は、来るべき東京大会への強化を目的として、この年9月から2カ月間にわたる初のヨーロッパ、ソ連遠征を行った。この時、ドイツ・デュイスブルクのスポーツシューレで出会ったのが、「日本サッカーの父」と称されるデットマール・クラマーだ。遠征はデュイスブルクでの合宿後、ドイツのアーヘン、スイスのグラスホッパーと対戦した後にソ連に入り、モスクワでの自動車工場のチームとの対戦を皮切りに、ソ連国内を転戦し国内リーグのチームと試合を重ねた。その後、63年、64年、65年、66年とデュイスブルクを拠点に毎年のように欧州遠征に赴いた。
 当時、ドイツやイタリアなどのプロチームは、アマチュアだった日本代表が対戦を申し込んでも相手にしてくれなかった。日本代表を率いた故長沼健はこんな思い出を語ったことがある。現地プロモーターの協力を得て、ドイツのメンヘングラッドバッハと交流試合をしたが、その試合のことをドイツの記者には口外しないでくれと言われた。理由を聞くと、アマチュアの日本となぜ試合をしたのだと責められるからだという。当時のドイツの考え方は、弱いからアマチュアだということ。弱いアマチュアの日本代表が海外遠征をすること自体、彼らの頭の中では考えられなかったというわけだ。
 その点、ソ連をはじめとする共産圏では国家の威信をかけるオリンピックという言葉への反応が良かった。日本のサッカーのレベルは知らなくても、「日本からオリンピック代表チームが来る」といえば、地方都市でも何万人という観客がスタンドを埋めて迎えてくれた。当然、地域のサッカー協会には多額の入場料収入が入り、その一部が日本チームにも分配されて渡航費に充てられたという。

東京五輪直前にも2カ月の長期合宿

 このような事情から、ヨーロッパ遠征ではクラーマーが待つスポーツシューレで合宿を行い、その行きまたは帰りにソ連や東欧諸国を回ることが自然な流れとなっていた。1964年東京オリンピックで日本はアルゼンチンを破る快挙を成し遂げたが、その直前に行った2カ月にも及ぶヨーロッパ・ソ連遠征が貴重な経験となった。
 遠征は今では考えられない旅だった。7月17日、横浜港から船で極東部のナホトカに渡り、そこからシベリア鉄道でハバロフスクへ。ここまでですでに55時間の長旅だ。さらに飛行機や列車を使い、3、4日に1試合の割合で軍隊のチームやロシア共和国選抜などと練習試合(ワールドカップ1次リーグで日本代表がポーランドと対戦するヴォルゴグラードでも試合をしている)。さらにウクライナ、ルーマニア、チェコ、ハンガリーと東欧を経由し、約1カ月かけてクラマーの待つデュイスブルグにたどり着いた。地元アマチュアクラブチームとの練習試合で最終調整を行い、オリンピックを前にした9月中旬に帰国。今では2カ月近い海外遠征というのは考えられないが、当時の日本代表選手は釜本邦茂、杉山隆一のような大学生と仕事をしながらプレーする社会人。学校や会社に対して、国内合宿で1カ月休ませてくれとはお願いできないが、海外遠征といえば「仕方がない」と許可をしてくれたという。
 長沼は「現地のチームから『あの選手を置いていってくれ』と杉山と釜本がいつもリクエストされた」と笑っていた。半世紀を経て、ロシアで本田圭佑らがプレーしたのも時の流れを感じさせる。

三国対抗で来日、日本のファンに印象残す

 日本とソ連の交流は一方通行にとどまらず、1960年のロコモティブ・モスクワの来日を皮切りに、2度にわたってスウェーデンとの三国対抗戦を開催。東京から4年後の68年メキシコオリンピック銅メダル獲得にソ連・東欧諸国から得た経験は大きな財産だ。
 1962年、オリンピック開催のために改修中だった国立競技場の代わりに後楽園競輪場(現在は東京ドームが建っている)で行われた三国対抗戦。ロシアから来日したディナモ・モスクワとスウェーデン代表の対戦に、入りきらないほどのお客さんが詰めかけたことは鮮明に覚えている。
 国家ぐるみのドーピング問題が取りざたされ、今年2月の平昌冬季オリンピックに国家として参加できなかったロシア。その同じ年に開催されるワールドカップは、ピッチ内外で注目を集める大会になるはずだ。ただ、サッカーについては他競技と異なり、オリンピック委員会など中央でコントロールできない部分が多い。旧ソ連崩壊を経て2001年にスタートしたロシア連邦のプレミアリーグは多くの観客を集めて人気を得ている。ソ連・東欧諸国との深い絆から力を得て、日本代表がメキシコで銅メダルを獲得してから今年で50年となる。区切りの年にロシアでワールドカップが開催されるというのは、とても感慨深いことだ。


(月刊グラン2018年6月号 No.291)

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