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日本代表監督の交代劇

 6大会連続の出場となったロシアワールドカップを前に、日本サッカー協会は異例の監督交代に踏み切った。「日本代表監督」という日本でただ一人しか就くことのできないポジション。交代劇はいい影響を与えるのだろうか。

最後は選手。確信を持ってピッチに立てるか

 4月9日、日本協会の田嶋幸三会長が、ハリルホジッチ日本代表監督の解任を発表した。自らパリに出向いて通告したという。田嶋会長は「監督と選手のコミュニケーションや信頼関係がなくなった」と解任の理由を語ったが、選手との信頼関係がどこまで合わなかったのか、一度漏れてしまったことで引っ込みがつかなくなり、割合あっさりと決まってしまったようにも感じている。どれだけ話し合って決めたのか、あるいはとことん話し合う気がなかったのか、その部分については正直言って分からない。ただ、サッカーというものは、監督ではなく、あくまで選手がプレーするもの。監督がいくらいい方向性を示しても、選手がその通りに動かなければ負けてしまう。
 今回の決定を経て、後任として日本代表監督を引き受けた西野朗氏のもとで選ばれた選手がどのようなまとまりを見せるか。どの監督もチームを良くしようと思い、選手に語りかけ、さまざまな手を打つということに変わりはない。大事なのは選手がどう受け取るのか。サッカーはピッチに立つ11人のほか、ベンチの選手を含めて、まとまってチームになっていく。そのチームのレベルが、対戦チームより高ければ勝利につながる。それだけのことだ。選手が現実的にどのレベルにあって、自分に対して確信を持ってピッチに立てるのか。そこが一番大事なところだ。
 これまでのワールドカップの歴史を見ても、大会の直前になって方針が合わないと監督交代したケースはいくらでもある。それは必ずしも得策とは限らない。今回の日本代表の交代劇については、技術委員長の西野氏が監督に就任して本大会を迎える。強化責任者として継続してチームをみていたということで考え方として間違いはないのだろうが、これで結果が悪ければ日本協会の方針に疑問がつくということだ。
 アマチュア時代のように長い期間、同じ監督コーチの下で長期の合宿をしてきたというやり方は今ではありえない。もちろん、あのやり方でも上手くいかないこともあったのだが…。選ばれた23人をどのように組み合わせて世界の舞台で戦うのか、西野監督の手腕に期待したい。

「長沼・岡野・平木」への転換点

 60年以上日本のサッカーを取材してきた中で、「日本代表監督」の大きな転機となったのは、メキシコオリンピックで銅メダルに導いた長沼健監督(故人・元日本サッカー協会会長)が、岡野俊一郎(故人・元日本サッカー協会会長)とコンビを組んだ時だろう。 1962年12月、日本代表監督になった長沼は当時32歳。古河電工でプレーイングマネジャーを務め、同好会レベルだった同社サッカー部を実業団の強豪に育て上げた。その長沼の相棒として戦術や理論を受け持った岡野、後に名古屋グランパスの初代監督となる平木隆三(故人)が練習での実務を任された。若い3人は、アマチュアの日本代表を強化し、当時の実力以上の成績を残すことに成功した。
 この若返り策を提案し、実現させたのは、「日本サッカーの父」として称えられるデットマール・クラマー(故人)だった。1960年、ドイツサッカー協会から派遣されたクラマーは、高橋英辰監督(故人・のちに日立製作所監督)とともに開催国として東京オリンピックの出場が決まっていた日本代表の強化に携わった。ただ、当時40代半ばの高橋監督は選手との年齢が離れていて、指揮を執っていく上での迷いを感じていた。その思いを聞いていたクラマーは、自分が責任を取るからと、将来の日本サッカー界をリードしていく人材として長沼・岡野コンビへの交代を進言。日本代表監督の若返りを模索していた当時の協会幹部もその提案を後押しした。監督交代の背景を取材する私に対して、協会幹部は「クラマーが言うんだからしょうがない」と何度も話していた。
 分析力があり、欠点を冷静に指摘できることで選手からは少し煙たがれていた岡野に対し、親分肌の長沼がやんわりと大所高所からみてきた。実務派の平木とともに三者三様の個性を持った指導者が、それぞれの役割を果たした。その3人をサポートしたのが、当時も今も世界のサッカー界をリードするドイツサッカー協会から派遣されたクラマーという優秀な指導者の存在だった。選手選考や試合への導き方など世界のサッカーのエッセンスを得た日本サッカーは飛躍的な成長を遂げ、メキシコオリンピックの銅メダルにもつながった。クラマー本人にとっても日本を五輪銅メダルに導いた実績をもとにエジプトやアメリカの代表監督を経て、バイエルン・ミュンヘンの監督としてチャンピオンズカップ優勝を経験するなど自らのキャリアを高めた。
 クラマーが残した功績を振り返ってみても、半世紀を経た今の日本サッカー界に通じることがまだ数多くある。長期的な視野に立ち強化全体を見渡し、代表監督を正当に評価する存在が大事だということが改めて感じられた。
 メキシコ五輪後、岡野が日本オリンピック委員会での仕事に力を入れるなど、3人が分散したこともあり、日本のサッカーは足踏みをして、日本代表はオリンピックから遠ざかった。ただ、その間にサッカーのすそ野は確実に広がり、来るべきプロ化、Jリーグ開幕、さらにオリンピックやワールドカップへの出場に向けたエネルギーが蓄えられていた。そして、日本代表監督は外国人時代を迎える。


(月刊グラン2018年7月号 No.292)

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